第七章 悪魔の所業-2
三日前、亀居総一郎は首を吊ろうとした。だが、テツがそれを引き止めた。何故、死のうとしたのか、総一郎は不思議な話をした。頭の中で声がするのだと。そのきっかけになったかも知れない言葉が「もるす、たるとす」だと言った。その同じ言葉を隅井戸も聞いたと思った。それは、萬田が言った言葉だった。だから、それを確かめるために、総一郎を萬田に引き合わせた。ピンポン! 大当たりだった。
総一郎の顔を見るなり、萬田は指を刺して、あー、あー! と言った。総一郎もまた、萬田を見て、目を見張った。
「こいつ、こいつだ!」
総一郎は、萬田の胸元を掴んで、今にも殴りかかりそうな塩梅で叫んだ。
「お前! 僕に何をした?」
「あー……あ、あー……」
萬田は怯えた顔をして菅野の影に隠れようと後ずさりした。
「総一郎くん、ちゃんと理由を言ってくれ給え」
隅井戸がそう言うと、総一郎は、こいつがあの言葉を、あの呪いの言葉を言ったんだ。あの時から、僕の頭がおかしくなったに違いないんだ、総一郎が言った。
「もるす、たなとす、だれ?」
萬田の口から言葉が漏れた。そう言ってから、萬田の目から輝きが消えた。身体の力がすべて抜けて、テントの床にへなへなと力なく倒れてしまった。
もるす、たなとす、だれ。もるす、たなとす、だれ。隅井戸は何度も口に出して繰り返した。だが、まったく何のことだか分からなかった。いったい何のことだ? 聞いたこともない。最後の「だれ」とは、誰? ということなのだろうか。もるす、たなとす、だれ。
「隅井戸はん、止めとくなはれ。なんや、その言葉、気持ち悪いわ」
総一郎は、これを呪いの言葉だと言った。本当にそうなのか? もしそれが本当なら、俺だって同じ言葉を萬田から聞いた。だが、俺の頭の中には、その奇妙な声はしていない。もし、これが呪いの言葉なのなら、こんなに何度も繰り返していたら、きっとまた何かが起きるのかも知れないな。菅野が言うように、隅井戸も少し気持ち悪くなった。
隅井戸は、とにかく総一郎を家に連れ戻すことにした。亀居紀久子の依頼は、失踪した夫の搜索だ。総一郎を連れ戻せば、隅井戸の仕事は一応完了する。総一郎の頭の中の声を消したり、呪いの言葉の謎を解くことは、依頼内容ではない。そんなことは、精神科医にでも任せておけばいい。精神科医でも、呪いの言葉は解けないとは思うけれども。
亀居の家では、紀久子とその義母の静香が、やきもきしながら待ちかねていた。北宿の公園を離れるときに、電話で一報だけ入れておいたのだ。
「まぁ、総一郎さん! どこに行ってたの!」
まるで迷子になった小学生の我が子を叱責するような口調で静香が言った。紀久子はただただ黙って総一郎を迎え入れ、静かに抱擁した。隅井戸は、いかに苦労して総一郎を捜し出したか、しかもこんな短期間で行動したのも、総一郎の命が危ないと踏んだからだ、もし、今日連れて帰ることが出来なかったら、総一郎さんは自ら命を断っていたかもしれない、そう言って全うした仕事の価値をうんと髙める台詞を言った。ありがたいことに総一郎も、隅井戸が言ったことに同意した。いや、実際、まだ総一郎の頭の中では怪しい声がしているわけだから、まだ油断は出来なかった。総一郎がまだ仕事に出られる状態ではない事、しっかりと見張っていなければならない事、奥さんとお母さんの愛情で助けるべきだという事、そして一度医師に相談してみるべきだという事、それだけの事を、隅井戸は二人の女に丁寧に繰り返し説明した。
「本当にありがとうございました。これで私たちもひと安心ですわ」
「本当になんとお礼をしたものやら。お金では代えられないほど感謝しています」
静香と紀久子は、そう言って予定より相当大きな額が入った封筒を隅井戸に渡した。
「それにしても、これで解決したことにはならないな。出来れば、総一郎の頭の中で聞こえる声もなんとかしてやりたい。そうすれば、あの人たちのことだから、さらに感謝してくれることだろう」
なにも金目当てばかりではない。探偵たるもの、謎を残したままで引き下がるという気にはなれないのだ。隅井戸は、デスクの上に積み上げられた書類の山を脇に押しのけて、その下に埋もれているマッキントッシュを発掘した。電源を入れて、ジャーンと起動音がしたが、機械が完全に立ち上がるまで少し時間を要する。その間にコーヒーを沸かし、ゴールデンバットを口にくわえた。ギシギシ音を立てる木製のワークチェアに尻を乗せ、煙草をくわえたままで検索窓に文字を打ち込む。
モルス
タナトス
ダレ
似たような言葉がたくさん表示される。隅井戸は、ブック型のマッチで加えている煙草に火を点け、PC画面に現れたリストの中から、正解かもしれないと思われる項目を探してクリックする。だが、何度クリックしても、この三つの言葉が並んで出てくることはなかった。ただ、単語毎に見ると、これかも知れないなと思えるワードがヒットした。
モルス……Mors
タナトス……Thanatos
ダレ……dare
もし、この言葉だとしたら……これは、こんな意味があるらしい。
Mors:ラテン語では「死」、もしくはローマ神話の「死の神」
Thanatos:ラテン語では「死」、もしくはギリシア神話の中で「死の神」
dare:ラテン語ではgive 、英語ではdoに近い
総一郎は頭の中でする声のことをこう言った。「殺せ、殺せ」と。インターネットで現れた言葉がズバリその通りではないとしても、とても近い意味合いを持っているではないか。これは、やはり古代の呪術なのかも知れない。




