第八章 闇の殺し屋集団-1
隅井戸武探偵事務所は、古いビルの最も奥まった廊下の突き当りにある。本当はもっと都心に近い場所の、近代的なビルにすればよかったのかも知れないが……隅井戸は、そんなことは一言も口に出したことはない。ここは、俺の主義で、スタイルで、好みで、決めた事務所だ。ハード・ボイルドな探偵が、近代的なビルに入ってどうする。飽くまでもストイックにこだわる、それが隅井戸武なんだ。そう言ってはばからない。だが、実際のところ、こんな古い薄暗いビルにやって来る依頼者は、ろくでもない。
隅井戸は、デスクの後ろに大きく開かれた窓の外を眺めながら独り言を言う。
「暇だ」
と、その時、デスクの上で黒い電話が騒ぎ出した。事件か? 隅井戸はひと呼吸おいてから受話器を上げる。
「隅井戸武探偵事務所」
「ああ、隅井戸はん、私立探偵はん!」
「なんだ、君か」
電話をしてきたのは、ついこの間、北宿の公園で解決した事件で知り合った浮浪者、菅野だった。いつ関西からやってきたのか知らないが、思いっきりべたな大阪弁で、隅井戸のストイックなイメージをぶっ壊してくれやがる。
「なんだは、おまへんやろ、だんな。あんなぁ、気がつきましてん」
「なんだ? 何に気がついたんだ?」
「違いまんがな、ウチの萬田が気がつきましたんや」
「というと? 萬田が何に気がついたんだ?」
「萬田、正気に戻り寄った」
「正気に……?」
「そうやがな。あいつ、普段、呆けてるけど、ちょいちょい正気に戻りよんねん」
「そうか。それで?」
「それで? やおまへんやろ、だんな。あんさん、あの魔法の言葉、知りたがってたのんと違いますか? 今やったら、萬田に何か聞けるかも知れまへんやろ?」
なるほど、そういうことか。萬田にしか分からない、あの呪文。萬田が正気に戻ったというなら、何かを聞き出せるかも知れない。もう、あの公園に行くこともないかと思っていたが、そうだな、もう一度、奴らに会ってみるか。隅井戸はそう考えて、答えた。
「分かった。今から行く。萬田が正気のままでいるようにしておけよ!」
「わ、分かった。けど、保証は出来まへんで。萬田はいつまたアホになりよるか、そら、わいには分からん」
隅井戸は、急いで事務所を後にした。地下鉄に乗るのもまどろっこしく、通りでタクシーをつかまえた。タクシーの方が絶対に早いという保証はどこにもない。道が渋滞などしていたら、むしろ地下鉄に乗ったほうが早いと言う事もありうるからだ。だが、仮にそうなったとしても、出来るだけ早く駆けつけるべく努力をした結果なのだから、自分なりに納得出来る。何の努力もしないで、チンタラと電車に乗って行った挙句に、萬田がまた呆けていたのでは、なんだか申し訳ない。
幸い、道はスムーズで、北宿に着いたのは約二〇分後だった。小さな公園の入口のところで、菅野と萬田が待っていた。
「あ、隅井戸はん、早かったなぁ! 萬ちゃん、こっちが隅井戸さんや。知ってるわな?」
「もちろん、知っています」
そう言った萬田の顔つきが、この前とは大きく変わっていた。半眼で明後日の方向しか見ていなかった目は、くっきりと見開かれ、鋭い眼光を見せている。だらしなく半開きになっていた口元もきりりと締まっている。人間、精神のありようでこうも外見が変わってしまうものかと、隅井戸はとても驚いた。
「あの、来てくれはった早々で申し訳ないんですけど、ちょっと、一緒に来ておくなはれ。萬田が、どうしても行かなあかんって言いよるんですわ」
正気になった萬田が、どうしても行って確かめなければならないところがあると言うのだ。そこで、移動しながら萬田の話を聞くことにした。
萬田は、十年前までは地方の大学に教授として勤めていた。本来は哲学の研究者だそうだが、若い頃にプラトンに傾倒し、近代哲学に入るのではなく、さらに古代へと遡っていった。その結果、人間の心の底辺に存在する負の概念に興味を持つようになり、古代宗教を研究するようになった。そもそも、哲学と宗教学は、目的と道筋こそ違うが、その根底にあるもの、つまり人間の正体を明らかにしたいという思いはほとんど同じだ。萬田の研究対象は、イスラム、ユダヤからさらにマニ、ゾロアスターへと遡り、遂にはペルシア神話以前へと向けられた。この頃すでに、世の中の事象は善と悪の二元論で語られていたが、常に善が勝利をするという勧善懲悪の図式の中では一元論であったとも言える。だが、萬田は、勧善懲悪という思考こそが人間の都合によりでっち上げられたもので、真実はほかにあると考えた。学会では異端児と呼ばれるようになった萬田は、度々インドやイスラムの地を訪れ、現地の発掘調査などにも加わった。そして古代ペルシアのベールをはぎ取ろうとしているイランの歴史学者モラニと共に、アフガニスタン高原の発掘調査に加わった時には、すでに萬田は四十五歳になっていた。
アフガニスタンの遺跡といえば、イスラム原理主義者によって破壊されたバーミヤンの偶像寺院が有名だが、ヒンドゥークシュ山脈の中には、まだまだ未踏の遺跡が眠っているとされている。萬田を含む調査隊は、この山奥に眠る文明と古代宗教の遺物を探し求めた。やがて一行は、文字通り地を這い、足を摩り減らした報酬として、渓谷の北端に未知の遺跡を発見した。そこは古代ペルシアの悪神ダエーワを封じ込めたのではないかと思われる神殿の入口だった。だが、運悪く宗教闘争の歴史の波がこの地にも波及し、国際紛争の被弾が及ぶ。発掘は中止どころか、発掘隊そのものが崩壊し、調査は不発に終わった。しかしこの時、萬田の執念は、この地を離れさせなかった。どのようにしてそれが出来たのか、萬田本人にも分からないらしいが、萬田は崩壊した遺跡に固執し、砲弾によって顕になった地底に続く裂け目の中に消えていった。




