51.慰めのくちづけ
「――ラズール」
険しい顔、怒気で顔が赤黒く染まって見える。いつも青い瞳は、今日は濃く染まり黒に見える。
怒った顔に逃げたくなる。
(でも……最後に会えて、嬉しい)
こんな勝手な感情に、支配されている。勝手な思いに、ラズールを巻き込んでいる。やっぱり好きなのだ、顔を見るたびに思い知らされる。
「なんで、笑ってる」
シャーラは泣きたい思いなのに、顔は笑っているのを意識した。
感情がおかしい、でも、嬉しいのだ。そして、苦しい、悲しい。
「ラズールは、私の正体がわかったでしょ」
「正体?」
「裏切りものよ」
「裏切ったのか? どこが?」
ラズールの、なんだそれは、という問いに、シャーラは困惑する。
「あなた達を陥れようとした。騙したの。嘘つきで、信用できない人間」
「シャーラ」
伸ばされる手を避け、一歩逃げると、腕を掴まれる。
「逃げるな!」
厳しい声に、足を止める。その青い目に、いつも目が離せなくなって、意識が囚われる。
「『黒蛇』の巣には、トゥリー達を向かわせた。あそこは帝国に情報を流したから、もうお終いだ」
ラズールの顔が、苦しげに歪められる。
「――俺は、アンタの様子がおかしいことは気がついてた。なのに……慰めもしなかった。騙したのは俺だ――最低だ」
「ラズール、違う! 私が言わなかっただけ」
「そうさ、アンタは問い詰めても言わない。だから、行動を起こすまで待った。アンタへの苦情は山ほどある、俺に相談せず一人で抱えこむなって……」
そこで、ラズールは言葉を切る。
「けど。辛い思いをさせた、ごめん」
ラズールの暗く沈んだ瞳に、自嘲の口調。
ラズールは知っていた。
そう思うと、シャーラは膝から下に力が入らなくなり、壁に手をついた。それを支えようとしたラズールを見上げて、首を振る。
「離して」
「いやだ」
(私は、ラズールを傷つけたのに)
どう言えば、いいのだろう。
「……ねえ、私は平気。本当に、何もなかったの」
「シャーラ」
「ジャファルの言うことは本当。私ね――」
ラズールに……知られたくなかった。けれど、言わなくてはいけない。
「……奴隷、だった。わかったの。だから逃げてきたの。ラズールが私を助ける必要は、ないの」
ラズールは怒ったように気難しげな顔だ。腰に手を添えラズールの顔を覗き込む。ちゃんと目を見て言えているから大丈夫。
意識して口角を引き上げる、笑えているはず。
「一人で、戻る。一人で、行くわ。だからもう――助け、ないで」
「――シャーラ!」
ラズールの抑えた声がシャーラを黙らせる。怒っている、こんなことを言う自分に。
(けど、怒って、呆れて、もう見捨てて)
「ラズール、全部わかったの。一人で戻りたいの、戻らなきゃいけないの」
「シャーラ!」
ラズールが、シャーラの掴んだ腕をぐいと引き寄せる。
彼の胸で顔が塞がれて、声が出せなくなる。
「もういいって。アンタ、嘘が下手なんだよ」
彼の匂いに、感触に、離れられなくなる。必死で押しのける。
なんでわかってくれないの? どうして、抱きしめてくれるの?
「嘘じゃない。私はラズールを騙して命を奪おうとしたの! だから離して!」
「シャーラ、もういいって」
「よくない! じゃないと、ラズールが――」
シャーラは口を引き結ぶ。言えない、言わない。
「俺がなんだ」
「なんでもない」
「シャーラ、なんだ!」
彼が、シャーラから体を話して顔を覗き込んでくる。目を合わせてくる。
群青色に染まる目が問いかける。
「シャーラ、言えよ!!」
シャーラは、吐き出すように、叫ぶ。視界がぼやける。
「巻き込みたくない、ラズールを、殺したくないっ!!」
「アンタが俺を殺すなら、それでもいい」
「殺さないっ! それくらいなら私が死――」
溢れ出る言葉を黙らせるように、唇が塞がれる。声が出せない、息もできない。
目を見開けば、目尻に指が優しく触れる。
「それ以上は言うなよ。俺はアンタを守りたいのに」
声は怒っているのに、顔は切ない表情。
「ラズール、な、んで?」
「泣きながら言われたら、したくなった」
唖然として、意味が頭に浸透して顔が赤くなる。けれどバシュルの声に我に返る。
「――ここでイチャつかないでくれ、俺も死にたくなる」
シャーラは息をのみ、バツの悪そうな顔のラズールの頬に手を触れる。
「……ラズール。私、みんなを、殺してしまうところだった」
そして続ける「だから、許さないで」
ラズールの腕の拘束は全然外れない、むしろ更に強くなるばかり。
「些か自分勝手だが。羨ましい……」
バシュルの呟く声に、勝手な自分を自覚する。そう、ラズールから離れる。決めたのだ。
「アンタ、一度決めたら頑なだな。勝手に決めやがって。なあシャーラ。だったら逃げんなよ」
「逃げる……」
「そうだ、あんたは逃げてんだよ。俺からも、その追いかけて来るヤツからも」
そうだ、そうかもしれない。決意を固めて、向かうつもりなのに、きっと逃げるのだ。ラズールが死ぬ未来から。
「どうして、俺と立ち向かおうとしない? 追いかけてくるなら、こっちから行ってやる、倒しに行けばいいだろ」
「だって」
「俺がそんな簡単に死ぬと思うのか? 少なくともアンタが一人で行くよりマシな未来だ」
「だって、私、私は――あなたを殺すために連れていく、奴隷なのよ!!」
「そんなこと、誰が言った」
「……」
「シャーラ。誰が言った」
シャーラは首を振る、答えられない。たくさんの証拠、おぼろげな記憶、それを言いたくない。
「シャーラ、アンタはそんなんじゃない」
ラズールはシャーラの両頬を挟み、顔を覗き込む。
「俺にとっては好きな女だ、俺だけの女だ」
「ラ……ズ」
視界がぼやける、どうしてそんなに優しく笑うの。どうしてそんなに見つめてくるの。
まるで、愛しいものを見つめるかのように、何かを堪えているかのように。
「シャーラ、アンタは俺のすべてだ。過去なんてどうでもいい、今ここにいる、俺の手の中にいるだけの、それだけの存在なんだよ」
「……」
「俺が手を離さなければいい。そうしたら、アンタはただのシャーラだ。そうだろ?」
「ラズール……ラズール」
もう顔が見られない。ただすがりついた胸に顔をうずめる。それが許されるなら、それを選びたい。そうしたい。
「ラズール、そろそろいいか」
ふいに、気まずげな声――バシュルの声が響いて、シャーラはラズールの腕の中で固まる。
ラズールの身じろぎする気配がする。きっとバシュルを振り返っている。シャーラはラズールの胸に顔を埋めたまま動けない。
恥ずかしくて顔があげられない。
無関係の男性の目の前で――自分は何を?
(口づけを……して)
シャーラは、いっそうラズールの胸に顔を深く埋める。それをラズールは気が付いているのかどうか、なだめるように背をさする。
「すまない。後で話す、時間をくれ」
「――ああ、もう全部済ませてすっきりしてくれ。痴話喧嘩に巻き込まれるのは十分だ」
「別に喧嘩してねぇよ。仲良くしてる」
ラズールの声が頭上から降り注ぐ。
(なんなの? こんなの、ずるい……)
別れの話をしていたはずなのに。軽口のような口調に顔が赤くなる。
けれど口調とは裏腹に、そっと見上げたラズールは物憂げな顔で、シャーラはただラズールの胸元を掴んで何も言えなくなった。




