無垢の子ども編(六)
年が明けても、佐竹家に渡海の命は下されなかった。昨年は来春渡海の予定だと聞かされていたが、特にその沙汰はなかった。ただひたすら、秀吉の茶会や蹴鞠、狂言などに付き合うばかりだ。この陣中の様子を知ったら、渡海した諸将は何と思うだろうか。
このまま渡海せずに済むのだろうか、と義宣は思っていたが、六月に入って義久たちを渡海させることになった。だが、義久たちは戦をすることなく帰ってきた。金阿弥は義宣も渡海しなければならなくなるのではないか、と心配していたようだが、結局義宣は一度も渡海することなく、八月に秀吉が大坂へ戻ったのに合わせて名護屋を発った。
朝鮮へ渡っている諸将へは悪いが、これでしばらくは渡海の心配はない。金阿弥も安心しただろうと思ったが、名護屋を発つ頃から金阿弥は少し元気がないようだった。もう渡海の心配をしなくてもいいのだと言い聞かせると、安心したように笑ったのだが、やはり元気がない。
「金阿、どうかしたのか?」
「あ、いえ、何でもありません」
長く名護屋にいたせいで体調を崩したのか、それとも何か不安でもあるのか。元気のない金阿弥が心配だったので、二人きりで話を聞こうと思った。だが、金阿弥は何でもない、と言う。何でもないはずがない。
「元気がない。何でもないはずないだろう? 俺には話したくないのか?」
「いいえ、そんなことはありません」
必死に首を振る金阿弥が可愛らしくて、思わず笑みが漏れてしまう。相手は十三の子どもだというのに。
迷うように視線をさまよわせた後、金阿弥はおずおずと義宣の顔を見上げてきた。その目は不安そうだった。
「母の命日が近いのです」
予想外の金阿弥の言葉に義宣は驚いた。まさか金阿弥の元気がない理由が、母親の命日が近いことだとは思わなかった。それに、義宣は金阿弥の母親がすでに死んでいることを知らなかった。今頃が母の命日だというのなら、昨年も一昨年もこの頃は、金阿弥は義宣のもとにいたはずだ。九戸討伐と渡海の噂のせいで、金阿弥を気遣う余裕が今まではなかった。だから、気づかなかったのだ。
「子どもだと笑われても構わないのです。自分でも、十三にもなっていまだに母の命日が近くなると気落ちするなど、おかしいと思います」
「おかしいとは思わない」
寂しそうに苦笑する金阿弥の手を握ると、金阿弥は驚きに目を見開いた。手を強く握りしめても、驚いているせいか金阿弥は義宣の手を握り返さなかった。
「お前がよければ、話してくれないか」
「え?」
「お前と母親の話だ」
なぜ金阿弥が母親の命日が近付くと気落ちするのか。なぜ母親にこだわるのか。子どもだから、と言ってしまえば片付くかもしれないが、義宣はそれを知りたかった。金阿弥は再びためらうように視線を彷徨わせたが、しばらくして口を開いた。
「母が亡くなったのは、私が五つのときでした」
「五つ。そんなに幼いときに母を亡くしていたのか」
「はい。だから、母のことを私は覚えていないのです。どんな顔だったか、どんな声だったか、全くと言っていいほど分からないのです。たまに、父や兄たちが母の話をしても、私には全く分かりません」
「そうか」
「だからだと思うんです。だから、母の命日が近付くと、今でも元気がなくなります。もう昔の話なのに。覚えてもいない母のことを、思ってしまうんです。すみません、こんな話」
義宣に手を握られたまま金阿弥は俯いた。母親の話をさせたら、ますます元気がなくなってしまったように見えた。そんな金阿弥の姿を見ていると堪らなくなって、握った手を引いて抱きしめた。
「殿?」
「寂しかったんだな」
義宣がぽつりと呟くと、腕の中で金阿弥がびくりと肩を震わせた。じっと目を見つめると、小さく首を振った。
「そんな、私には父も兄もいて、とても優しくて、だから、寂しいなんて、そんな」
「本当は、寂しかったんだろう?」
重ねて問うと、金阿弥の目にじわじわと涙が浮かんできた。いっぱいにたまった涙が、瞬きをした瞬間に零れ落ちる。頬を伝う涙を拭ってやると、金阿弥は義宣の首にひしと抱きついてきた。
「寂しかった」
小さな声は震えていた。その声は消え入るように小さかったが、金阿弥の寂しさは痛いくらいに伝わってきた。
「みんな母上のことを知っているのに、私だけ知らなくて、母上に愛された記憶もなくて、父上も兄上たちも優しかったけれど、本当は、ずっとずっと寂しかった」
金阿弥の涙が義宣の肩に染み込んでいく。肩に顔を埋めて静かに涙を流す金阿弥の背を、慰めるように撫でた。
「俺もだよ」
義宣の呟きに金阿弥が顔を上げた。涙に濡れた目と視線がぶつかり、義宣はかすかに苦笑を浮かべた。
「俺も、ずっと寂しかった」
「けれど、殿にはお母上様が」
「母上か」
鼻をすする金阿弥の顔を、再び肩に埋めさせて頭を撫でた。金阿弥の目にじっと見つめられると、心が痛む。確かに、母を亡くした金阿弥にしてみれば、義宣の言う寂しさは違うのかもしれない。だが、義宣もずっと寂しかった。金阿弥の中に、自分と同じ寂しさを見た気がしたのだ。
「愛されなければ、同じだろう」
独り言のように呟いた義宣の言葉が、金阿弥に聞こえたかは分からない。ただ、義宣は金阿弥を強く抱きしめた。金阿弥もぎゅっと義宣に抱きついてくる。
「金阿」
「はい」
「まだ、寂しいか?」
「殿がいらっしゃるから、寂しくないです」
金阿弥は更にきつく抱きついてきた。抱きつくというよりも、首にすがりつかれているようだ。だが、これは照れているのだ。そのくらいは分かる。金阿弥以外の言葉なら、義宣がいるから寂しくない、ということを信じられないだろう。金阿弥は違う。金阿弥ならば信じられる。
ずっと側に置いてきたのだ。金阿弥は義宣だけを見ている。
「俺も寂しくないよ、お前がいるから」
大人と子どもが抱き合って、互いに寂しくないと言い合う姿は滑稽なように思えたが、なぜか自分たちには似合いの姿のような気もした。
寂しいと泣いて義宣にすがり、今は照れて顔を隠す金阿弥が愛しくて、腕の力をゆるめて顔を上げさせた。金阿弥の目は初めて会った頃と変わらずに澄んでいて、他人に暴かれたくない心の奥底まで見透かされるような気がした。金阿弥の目に映る自分は、醜い大人のような気がした。
何だかいたたまれなくなって、金阿弥の目を手で塞いだ。そして、そっと金阿弥に口づけた。




