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足音

「おい、咲季……」

 まだ返事はない。

 だが近づいてくる足音。本当にもうすぐそこ。土煙もさっきよりはおさまっている。

 よし。これで……

 音が近づいてくるほう……階段を背にして正面の、その暗がりへ携帯をかざした。

 

「咲季」

 呼びかけとほとんど同時。

 視界に、不意にいくつかの影が像を結んだ。

 

 一瞬、なんだか分からなかった。

 

 だが、咲季ではないことだけはすぐに分かった。

 

 光の中に浮かんだ姿。

 見間違いじゃないよな?

 気持ち悪い犬のカブリモノをした人、というのが第一印象だった。

 いやいやカブリモノなんてそんな生易しいものじゃない。同僚が以前ネットで見つけたと言って見せびらかしていた、悪趣味な腐乱死体の画像を思い出させる……者、いや、物?

 それが「生きている」という実感がどうしても湧かない雰囲気。遊園地のホラーハウスのアトラクションの、うまく作った人形が動いている、ような。少なくともこの世界のものとは思えない。

 更に言えば俺自身も生きている心地がしない……なんてうまいこと言っている場合じゃないよな?

 

 現実だと思っているものが、あまりにも現実から離れたものに突然すり替えられてしまったとしたら、自分の思考もなんだか現実から離れたところに飛ばされてしまう……それを実感しているという……というかこれが「鬼」なのか?

 地獄と冠した絵によく描かれている鬼とはまるで違う。

 存在感そのものの恐怖が、俺の中を、理性も感情もぐちゃぐちゃにしようと殴りかかってくる感じ。

 体中の毛穴が一瞬にして開き背中が冷や汗でびしょびしょになる。

 その開いた毛穴から、今までの人生の中では経験したことがない嫌悪感と嘔吐感といっぱいの汚染された空気が、俺の体内に入り込んできそうで。

 

 目が合う。いや、合って、いるのか?

 濁っているようにも見えるその目。

 それとも俺が目をまともに見られないでいるだけ、なのだろうか。

 

 携帯の光の中、土埃の海を泳ぐように浮かぶのは、時間をとてもゆっくりと感じるから?

 そいつらは……虚ろな狗の顔は、その口を大きくと開けながら俺に向かってまっすぐ……え?

 俺に?

 あれ?

 咲季は?

 咲季はどうしたんだ?

 まさか。

 一瞬の迷いが、逃げようとする足をもつれさせる。

 

 その口が閉じたのは俺の腕よりも何十センチか向こうと思ったのだが、それでも頬に暖かいものがかかる。

 暖かいものはこの腕をも覆い……そして逆の腕に激痛。

 地面に落とした携帯の明かりに浮かんだのは、深いざっくり傷が何本か浮かんだ俺の右腕。そして同じライトの中に浮かぶ「鬼」の爪……まるで刃物のような鋭い鉤爪。

 すぐに別の角度から、衝撃と痛みとが襲ってくる。

 畳み掛けるように正面の奴が、今度はしっかりと俺の腕に噛み付いて。

 っ……

 声にならないほどの、本当の痛み。

 現実じゃないなんて言ってられないほどの。

 その顔を、なんとか引き剥がそうとつかんだ指が感じるのは「鬼」の皮膚。鈍く分厚く弾力があり、こんなに鋭く動く生き物のものとはとてもじゃないが思えない、ゴムのような皮膚。

 なんで……「鬼」って……どうして……

 口を開いてはまた噎せ、声もろくに出せないまま恐怖と痛みとが俺を貪ってゆくのを……俺自身のことなのに、ぼんやり第三者のように傍観していた。

 いったい今、何が起きているのだろうか……

 …………咲季……ごめん……

 ……愛し……て



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