第15話 『死神』
激しい雨音の向こうから響いた、一度きりの金属音。
その音の正体を確かめるべく、キノとキクラはノキの亡骸から顔を上げ、戦場へと駆け出した。
「隊長ッ!!!」
キクラが戦場のドアを開け放ちながら叫んだ。
そこにはサーベルを構え、見たこともないような殺気を放っている、血まみれのリュフターが立っていた。
しかし、リュフターは入ってきた二人を見るなり、焦りを浮かべた様子で叫んだ。
「ーーっ、避けろォォ!!」
リュフターの裂帛の叫びが響く。
だが、その叫びよりも早く、キノは動いていた。
激しい雨を鋭く切り裂き、キクラの首元へとまっすぐに飛来する、一振りの凶刃。
音もなく、光すら反射しないそのナイフの絶対的な死の軌道を、キノの瞳は完全に捉えていた。
「キクラさんっ!!」
考えるより先に、キノは隣のキクラの身体を横から全力で突き飛ばした。
「うおっ!?」
不意を突かれたキクラの巨体が横に傾く。
――次の瞬間。
ザクッ!
鈍い肉声とともに、風を切って飛んできたナイフが、キクラの左肩へと深々と突き刺さった。
「がっ…あぁっ……!?」
キクラが苦痛に顔を歪め、肩を押さえてうずくまる。
「すみません…キクラさん…!」
もし、キノが突き飛ばしていなければ、そのナイフは間違いなくキクラの喉笛を正確に射抜いていた。
雨のカーテンを割り、一人の男がゆっくりと歩み出てくる。
手元で弄ぶように、次のナイフを指先で滑らせているーーホテイル・チークだ。
男は感情のない冷たい瞳をキノへと向け、薄く笑った。
「待ち侘びたぞ。キノ・トラベルトよ。」
「チッ…てめぇ…」
リュフターが鬼の形相でホテイルを睨みつける。
だが、ホテイルが返したのは、温度のない冷徹な嘲笑だった。
「フッ…貴様の部下…無能にも程がある。俺の投げナイフすら、満足に避けれんとは。」
「…何?」
リュフターの口から漏れたのは、感情の死に絶えた、地を這うような低い声だった。
その瞳の奥で、限界を超えた怒りの炎が、どす黒く燃え上がっている。
大切な基地を壊滅させられ、ノキの命を奪われ、その上、今なお命懸けで戦う部下を「無能」と嘲笑われた。
リュフターは血に染まったサーベルをゆっくりと、だが凄まじい力で握り直した。
「てめぇ…今…なんつった…?」
「ククク…何度でも言ってやろう。貴様の部下は無能だ。そこにいる男も。既に死んだあの女もな。」
ホテイルが嘲笑を含んだ目でリュフターを捉える。
その時だった。
対峙する二人から少し離れたところで、異常なまでの殺気が膨れ上がった。
「やっぱりか…」
そう怒りをあらわにする男。
それは既に槍を深く構えた、キノだった。
「やっぱり…お前が…ノキさんを…!!」
「お…おい…キノ…?」
隣に立つキクラですら、その異様な気配に戦慄し、思わず声を漏らす。
「うあああぁぁぁぁぁぁっっっ!!!」
床を踏みちぎるような凄まじい足音と共に、キノの身体が弾丸のように突っ込んだ。
咆嘘とともに繰り出された一突きは、激しい雨のカーテンを爆発的に吹き飛ばし、ホテイルの胸元へと一直線に肉薄する。
それは、かつてキノの父がたけのこ兵の喉元を正確に貫いた、あの誇り高きトラベルト家の槍術そのものだった。
「なっ…」
涼しい顔をしていたホテイルの顔色が一瞬で変わる。
「うおおぉぁぁぁぁ!!」
何の造作もない、単純な突き。
だが、ホテイルはその突きを視認することすらできなかった。
グサッ…!
「がっ……は…?」
ホテイルの口から、信じられないという風にチョコの泡が溢れ出る。
超一流の暗殺者として、数々の死線をくぐり抜けてきた男。
どのような達人の刃であろうと、その予備動作や空気の揺らぎを察知し、完璧に見切ってきた自負があった。
現にあのリュフターにすら、一撃も貰っていなかった。
だが、今キノが放った突きには、その予備動作も、ほんの僅かな空気の揺らぎも一切なかった。
ただただ、標的だけを殺すことに特化した、神速の突き。
記憶が鮮明に蘇ったキノの体に刻み込まれた槍術と憎悪が、完全に同調していた。
迷いも、怯えも、感情のブレもない。
そこにいたのは、純粋な滅殺の意思を持った死神だった。
「ぐ…お…ゴフッ…」
腹を貫かれたホテイルは、なす術なく地面に崩れ落ちる。
「っ…」
隣にいたリュフターさえも、キノの異常さに唖然としていた。
(何だ…今のは…?俺ですら微かにしか見えなかった…。信じられん…これがアポーロとやらの影響か…!?)
リュフターが戦慄と共にキノを見つめる中、激しい雨の音だけがその場を支配していた。
地面に膝をつき、腹からどろりとチョコの血を流すホテイルは、荒い息を吐きながら、信じられないという目でキノを睨み上げる。
超一流の暗殺者としてのプライドを、何の造作もない一撃で、木っ端微塵に打ち砕かれたのだ。
「…まだ…息がある…」
低く、温度のない声。
キノは槍を再び正眼に構え、トドメを刺すべく、崩れ落ちたホテイルへと冷酷に一歩を踏み出す。
「っ…待て!」
その時、リュフターが鋭い声を上げ、キノとホテイルの間に割って入った。
サーベルをホテイルに向けたまま、絶対零度の死神に話しかける。
「コイツには、聞かなければならないことが山程ある。それに…もっと苦しませなければーー」
「退いてください。」
キノの言葉が、リュフターの言い分を遮った。
その声に怒りは含まれていない。
ただ、目の前の障害物を排除するかのような、あまりにも無機質で、絶対的な拒絶。
「何…?」
思わぬ弟の反抗に、リュフターは一瞬、言葉を失った。
その時キノの槍の切先は、今やホテイルだけでなく、その前に立つリュフターの胸元をも、迷いなく真っ直ぐに捉えていた。
「僕の邪魔をしないでください。…隊長…でしたっけ…。これ以上邪魔をするなら、容赦はしません。」
「は…?」
リュフターから漏れ出たその声には、困惑と怒りが混ざり合っていた。
「おいてめぇ…今なんて言った?」
リュフターの額に青筋が浮かぶ。
実の弟から槍を向けられた。
その事実だけでも怒りが沸点に達しそうだったが、何よりもリュフターを逆撫でしたのは、キノのその余所余所しい物言いだった。
『…隊長…でしたっけ…』
まるで、人づてに聞いた名前を、今初めて思い出したかのような、そんな口振り。
「ふざけるのも大概にしろ。記憶を取り戻すためにあの基地へ行ったんじゃねえのか!? なんだその目は! 誰に向かって槍を向けてやがる!!」
激しい雨音に負けないリュフターの怒号。
しかし、キノの腕は、その切先は、寸分のブレもなくリュフターの心臓を狙い続けている。
「……僕の家族を奪った奴らが目の前にいる。だから、殺す。それだけの話です。」
キノの声音には、先ほどホテイルを貫いた時と同じ、完全な「無」があった。
憎しみで我を忘れているのではない。完全に研ぎ澄まされた滅殺の意志。
その視線の冷たさに、隣で肩を押さえていたキクラの身体が、恐怖でガタガタと震え始める。
「う…嘘…だろ…」
余りのキクラはその場を動くことが出来なかった。
リュフターに真実を伝えることも、キノを止めることも出来ず、ただそこに立ち尽くしている。
その時リュフターは、高速で思考を回していた。
(…ここを退けば、間違いなくコイツを殺すだろう。だが、俺が動かなければ……)
リュフターは自らの胸元に突きつけられた冷たい切先を睨み据えたまま、激しく歯噛みした。
今ここで、実の弟と刃を交えることに何も価値を見出していなかった。
「ぐ…お…」
ホテイルが苦しそうに呻き声を上げる。
彼の命もまた、風前の灯だった。
このまま放置していても、失血により長くは持たないだろう。
キノの目的は「生かすこと」でも「尋問すること」でもない。
ただ目の前の仇の息の根を、自らの手で確実に止めること、それだけだった。
その重苦しい雰囲気を断ち切ったのは、リュフターだった。
「…これが最後の警告だ。…キノ。コイツの身柄は俺が引き受ける。その槍を引け。」
リュフターはキノの濁りなき瞳を真っ直ぐに見据え、一歩も退かずに言い放った。
だが、それに対してキノが放った言葉はーーー
「……交渉決裂、ですね。」
キノの瞳に、わずかながらの憐れみすら浮かばない。
トン、と床を踏みしめる音が、雨音に混じって響いた。
「キノ、やめろォォォ!!! その人はお前のーー!!」
キクラが引き裂かれんばかりの悲鳴を上げた瞬間、キノの身体が、微動だにしない予備動作から、再び神速の踏み込みを見せた。
狙いはリュフターの胸。
そして、その背後にいるホテイルの首。
二つの命を同時に刈り取る、死神の突きが、今まさに放たれようとしていた。




