第1話:甘い罠の始まり
「よし、完璧。この修正案が通れば、研究局の予算は私のものね!」
魔法省の廊下を、私は快調なテンポで歩いていた。手には、昨日徹夜で書き上げた術式改変の報告書。
私の名前はカレン・エルメット。魔法研究局で「一度火がついたら誰にも止められない」と言われる、自他共に認める負けず嫌いだ。
目指すは、次回の合同会議で、あの鼻持ちならない男——魔法管理局のガイアス・ヴァン・クロムウェルを黙らせること。
学生時代から、成績、実技、果ては学食の限定メニューの取り合いまで、私とあいつは万年ライバル。
就職してからも、管理局の「スマートなエリート」面をしているあいつを見ると、私の闘争心に火がつく。
(今に見てなさいよ。今度こそ、あんたの余裕な顔を驚きで歪ませてやるんだから!)
そう意気込んで角を曲がった、その瞬間だった。
「おっと。……相変わらず、前を見て歩くという初歩的な魔法も使えないのかい? カレン」
「ひゃっ……!?」
ぶつかる直前、低い、けれど耳に心地よく響く声に呼び止められた。
見上げれば、そこにはパリッとした官服を完璧に着こなしたガイアスが立っていた。
整った顔立ちに、計算し尽くされたような薄笑い。……相変わらず、癪に障るほどイケメンなのが余計に腹が立つ。
「ガイアス! あんたこそ、そんなところで壁の花でも気取ってたわけ?」
「まさか。君が血眼で書類を抱えて突っ込んでくるのが見えたから、止まってあげたのさ。……無駄に元気そうで何よりだ」
そう言って、あいつが不意に手を伸ばしてきた。
避ける間もなく、長い指先が私の頬に触れ、一筋の髪を耳にかける。
「っ……な、何よ!」
「ゴミがついていた。……それより、随分と慌てているようだが。仕事が詰まっているのか?」
心臓がドクンと跳ねたのは、きっと驚いたからだ。そう、驚いただけ。
でも、あいつに弱みを見せるわけにはいかない。
「仕事は順調よ! 悪いのは……」
言いかけたところで、私のポケットの中の魔導通信機が、空気を読まずに激しく鳴り響いた。画面に表示されたのは『実家の母』。
「……うわ、最悪。またお見合いの話よ……」
思わず顔を引きつらせた私を見て、ガイアスが片眉を上げた。
「お見合い? ほう……。君のようなじゃじゃ馬を引き受ける奇特な男がいるとは驚きだ」
「うるさいわね! もう今月で五回目なの。断っても断っても、次は騎士団の有望株だとか、どこかの貴族だとか……。研究に集中したいのに、お母様が『カレンももういい歳なんだから』ってうるさくて!」
本当は、恋愛小説みたいなロマンティックな出会いには憧れる。でも、親に決められた相手と義務で結婚するなんて、私のプライドが許さない。
すると、ガイアスがニヤリと唇を歪めた。一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
気がつけば、私は冷たい石壁に背中を押しつけられ、あいつの腕の中に閉じ込められていた。
いわゆる「壁ドン」の形。
「……ちょ、ちょっと、ガイアス? 近いんだけど……」
「カレン。なら、僕が協力してあげようか」
あいつの顔が、耳元まで降りてくる。
微かに香る、洗練されたサンダルウッドの匂い。その低音の囁きに、背筋がゾクりとした。
「互いの利害一致、というやつだ。僕も執拗な縁談や、派閥争いの道具にされるのには辟易していてね。適当な『恋人』がいれば、余計な虫がつかなくて済む」
「恋人……?」
「そう。僕と『恋人のふり』をしないか? 期間は半年。それだけで、君のお母さんも黙るだろう?」
……あいつと、私が、恋人?
世界がひっくり返ってもあり得ない話だ。
でも、ここで「嫌」なんて言ったら、負けた感じするじゃない。
「……いいわよ。やってやろうじゃないの! 」
つい、勢いで宣言してしまった。
あいつの瞳が、獲物を仕留めた獲物のように妖しく光ったことにも気づかずに。
「決まりだ。よろしく、僕の『可愛い』恋人殿」
……私の平穏な研究員生活が、とんでもない方向に転がり始めた。




