エピソード2: 理想的な学生
数世紀前、〈闇の時代〉が始まる前に、人間には二つの種族が存在することが発見された。
ひとつは、生まれながらにして奇妙な力を持ち、その力は十歳を迎えた時に目覚める〈異能者〉。
もうひとつは、まったく普通の人間であり、他の人々と同じように暮らしていたが、その数の少なさから〈孤立者〉あるいは〈忌み子〉と呼ばれていた。
時の流れとともに、さまざまな系統の力が現れ、それらは十の氏族に分類された。
月の一族(最初にして最も偉大な一族)。
闇の一族。
血の一族。
蝶の一族。
植物の一族。
雪の一族。
火の一族。
水の一族。
風の一族。
岩の一族。
それぞれの氏族には強力な長が存在し、彼らは〈十人の族長〉として知られていた。
だが、その均衡は〈灰の子らの惨禍〉によって崩れ去った。
それは〈影時〉――〈影の時代〉において布かれた〈追放の掟〉によるものであり、一部の氏族を滅ぼすことを目的としていた。
だが誰も知らなかった。
その掟は〈カゲモリ〉の仕業ではなく、さらに強大で深淵なる闇の力によって生み出されたものであったことを――。
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その日は暖かな空気に包まれていた。
差し込む陽光が窓から静かに入り込み、アカデミーの長い廊下を淡く照らしている。
カミカは巨大な扉の前に立っていた。
金色の大きな文字で刻まれた――「理事長室」。
小さく息を吸い込み、ゆっくりとドアノブを回す。
扉の向こうにいたのは、ヴェリア理事長だった。
室内は気品に満ちている。中央には重厚な机、その前に二脚の椅子。
銀色に塗られた壁には金の装飾が施され、理事長の背後には大きな窓があった。
理事長は息子――ハル・ヴェリアによく似ている。
淡い赤髪に、澄んだ青い瞳。
黒の正装に赤い縁取り、赤いネクタイ。
肩には長い外黒・内赤のマント。
そして両手には、カミカと同じ黒い手袋。
彼の背後には二人の女性が立っていた。
右側には、首元までの短い金髪に青い瞳を持つ二十代ほどの女性。
黒一色の女性用スーツを着こなし、マントはない。
その黒とは対照的に、柔らかな微笑みを浮かべている。
――石の一族、森山先生。
左側には、三十代ほどの女性。
茶色の長い髪を横に編み込み、紫の長袖ブラウスに白いロングスカート。
澄んだ茶色の瞳が鋭くカミカを見据える。
長方形の眼鏡をかけている。
――植物の一族、リリィ先生。
理事長の合図で、カミカは机の前の椅子に腰を下ろした。
「怪我の具合はどうだね、キラス君?」
カミカは静かに頷く。
「もう、以前ほどは痛みません。」
理事長は小さく微笑み、頷いた。
「それは良かった。」
短い沈黙。
森山先生が軽く咳払いをする。
「自分がなぜここに呼ばれたのか、わかっているわね?カミカ。」
カミカは首を横に振った。
理事長が腕を組む。
「昨夜の三年生の件についてだ。」
カミカの表情は変わらない。
「昨夜の出来事は、非常に悲惨なものでした。」
リリィ先生が疑いの視線を向ける。
理事長が静かに言う。
「昨夜、何が起きたのか――誰も知らない。」
そして。
「だから、君に聞いている。」
森山先生が問いかける。
「三年生に何があったの?」
重い空気の中。
カミカは、微塵も動揺せずに答えた。
「第三階級の“コライ”です。」
一瞬で、空気が凍りつく。
理事長の目が見開かれ、森山先生も驚きに瞬きを繰り返す。
ただ一人、リリィ先生だけが無表情だった。
「第三階級……だと?」
理事長の声が低くなる。
「どんな姿をしていた?」
カミカは一拍置き、淡々と語る。
「長身で、巨大な尾を持ち、顔にまともな輪郭はなく、大きな口だけがありました。皮膚は爬虫類のようでした。」
理事長は鼻梁を押さえながら書き留める。
「紋章は? どうやって三年生を殺した?」
カミカは、存在しない怪物の情報が記録されていくのを冷静に見つめながら、嘘を重ねる。
「紋章は首に。」
そして。
「彼らの死因は……未熟さです。」
リリィ先生が鋭く言う。
「それは論理的ではありません。」
カミカはゆっくりと彼女を見る。
「いいえ、論理的です。」
声は静かだが、挑発的だった。
「三年生は連携と戦術に優れていると聞いていました。でも、昨夜の任務で私はそれを一度も見ていません。」
小さく首を傾ける。
「二年次で基礎を教わらなかったのですか?」
リリィ先生の目が細まる。
「基礎は教えてあります。失敗の原因は、二年生の“妨害”でしょう。」
その瞬間。
「もういい、リリィ。」
理事長の声が鋭く響く。
リリィ先生は頭を下げた。
「失礼しました。」
理事長は再びカミカを見る。
「つまり、三年生の無謀さが原因だと?」
カミカは頷く。
「君も刺されていたな。」
カミカは腹部へ視線を落とす。
「自衛しようとしましたが、最初の剣は折れました。二本目は奪われ、それで刺されました。」
リリィ先生が眼鏡を押し上げる。
「証拠は?」
カミカは理事長から目を逸らさないまま、懐から折り畳まれた紙を取り出し机に置いた。
「ハルカ医師からの検査結果です。私の剣に付着していた血液は、私自身のものであると。」
リリィ先生は紙を確認する。
「……確認しました。」
再び沈黙。
やがて理事長が名を呼ぶ。
「カミカ・キラス。」
彼は一枚の名簿を差し出した。
「二年C組の白石コウイチから、クラス交換の申し出があった。君がC組の級長、彼がA組へ。」
カミカは目を細める。
「理由は?」
「彼はA組でいじめを受けている。加えて――君は優秀だ。C組を任せたい。」
理事長はゆっくりと言う。
「私は君を信頼している。」
その言葉は、確かにカミカの胸に落ちた。
信頼。
それは彼女が最も必要とするもの。
だからこそ、静かに頷く。
「ご期待には応えます。」
理事長は微笑む。
「C組の統率は簡単ではないがね。」
そしてリリィ先生に視線を送った。
カミカは立ち上がる。
――理事長は彼女を信じている。
だが。
その信頼が利用されていることを、彼はまだ知らない。
カミカ・キラス。
彼女はただの生徒ではない。
カギヨモリ組織から送り込まれた存在。
学生としてではなく――
もっと、危険なものとして。
「――スパイ。」
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三人は二年C組の教室前に立っていた。
リリィ先生が一度、二度とノックする。
しかし返事はない。
小さく息を吐き、彼女は扉を開けた。
――そこは、教室とは思えない光景だった。
机の上に座って騒ぐ者。
教室内を走り回り叫ぶ者。
眠りこけている者。
取っ組み合いをしている者。
名門ヴェリア・アカデミーの教室というより、まるで無秩序な獣の檻だ。
リリィ先生は手を叩き、声を張り上げる。
「静かにしなさい!」
だが――
それは干し草の山から針を探すようなものだった。
効果は、ない。
彼女が教卓の下を覗き込んだ、その時。
そこには、膝を抱えて身を縮めている男がいた。
「何をしているんですか、広島先生?」
驚き混じりの声に、彼は顔を上げる。
黒髪に赤い瞳。
端正な顔立ち、整った体格。
二十代半ばの、見目麗しい青年教師――だが。
少々、気弱だ。
彼は慌てて立ち上がり、咳払いをする。
「……止めようとしたんですが。椅子を投げられそうになりまして。」
リリィ先生は首を傾げる。
「だから机の下に隠れたと? 怯えた鼠のように。」
小声だったが、「鼠」という単語はしっかり届いていた。
広島先生は反論せず、視線を逸らす。
彼女のほうが年上で、経験も上なのだ。
その時、彼の視線がカミカに向く。
教室の混沌を、まるで無音の映像でも見るかのように、静かに観察している少女。
「……彼女が代わりの級長ですか?」
リリィ先生が頷く。
「そう言っていいでしょう。」
広島先生は少し戸惑いながら呟く。
「いつも、あんなに無口なんですか?」
リリィ先生は淡々と言う。
「生徒から“歩く死体”と呼ばれているくらいですから。」
その瞬間。
――ドンッ。
鋭い音が教室を裂いた。
カミカが最前列の机を叩いたのだ。
たった一撃。
それだけで、空気が止まる。
騒音が、ぴたりと消えた。
全員の視線が、彼女に集まる。
カミカは何も言わず、一歩下がり、リリィ先生の隣に立つ。
合図。
リリィ先生が口を開く。
「やっと静かになりましたね。」
生徒たちは渋々席に戻る。
「こちらはカミカ・キラス。今日から二年C組の新しい級長です。白石コウイチと交代します。」
ざわめきが広がる。
噂。
評価。
容姿。
態度。
無意味な雑音。
広島先生は思わずカミカを見る。
(……たった一撃で。)
何時間も無駄だった自分との差に、かすかな尊敬すら滲む。
その時。
「新入り、か?」
声が教室の後方から響いた。
視線が集まる。
黒髪に金のメッシュ。
黄金色の瞳、鋭い黒い縦の瞳孔――まるで虎。
椅子にもたれ、両足を机に乗せている少女。
挑発的な笑み。
――闇の一族、マリー・スミス。
傲慢で、嫌われ者。
だが本人は気にも留めない。
彼女にとって他人は全て、目的達成の邪魔者にすぎない。
しかし。
カミカは違った。
月の一族。
無表情。
無音。
それが、気に入らない。
同盟にするためではない。
――叩き潰すためだ。
マリーは首を傾け、カミカを上から下まで値踏みする。
「ここじゃ長く持たない。」
くすり、と笑う。
「誰も持たないのよ。月の一族の出来損ないでもね。」
教室は静まり返る。
だがマリーは止まらない。
「まあ、歓迎するわ。どうせすぐ敗北する姿が見られるんだから。」
その瞬間。
彼女の指先から、黄金の爪が伸びた。
静かな威嚇。
「特に私がね……キラス。」
教室に緊張が走る。
だが。
カミカの表情は、微動だにしない。
まるで風の音でも聞いているかのように。
あるいは――
最初から、価値のない雑音として処理しているかのように。
彼女はただ、マリーを見た。
感情のない、月光のような瞳で。
そして、静かに思う。
(……興味がない。)
本当に危険なのは、牙を見せる者ではない。
牙を見せる必要すらない者だ。




