第6話:毒を吸う口
菌腐穴の奥へ進むにつれ、空気は変わった。
湿った空気に甘い匂いが混じり、鼻の奥を刺す。
地面は柔らかく沈み、足を踏み出すたび、どこかで何かが応えるように揺れた。
「真っ暗で何も見えない。どうやって進むの?」
「心配ない」
パフが短く答えた瞬間、〈アクア・ステラ〉がふっと強く発光し、薄闇を押し返した。
球体の内部では、光に照らされた藻が揺れ、
その藻を食む微細なプランクトンが漂い、
さらにそれを追う小さな甲殻類が影を走らせている。
パフは、その甲殻類を食べて数百年生き続けてきた。
球体に閉じ込められた小さな生態系――
その淡い光が、菌腐穴の闇を静かに照らしていた。
ナギは立ち止まり、息を整える。
前方一帯を覆うのは、白く絡み合う菌糸の壁だった。
天井から地面まで、無数の細い糸が垂れ下がり、脈打つように微かに動いている。
――胞子を放っている。
吸い込めば終わりだ。
「……菌虫だ。沢山いる」
菌糸の隙間を、小さな菌虫たちが這い、蠢いていた。
鳴き声も羽音もない。
ただ存在しているだけなのに、息が詰まるほどの圧迫感があった。
襲ってくる気配はない。
むしろ、近づけば静かに離れていく。
視界がわずかに歪む。
音が遠のき、指先の感覚が薄れていく。
十五歩目で、ナギはフィルターを外し、ルミナの口元へ押し付けた。
「んっ、交代だ」
それを何度も何度も繰り返した。
しかし、出口はまだ見えない。
菌糸は次第に密集し、道は迷路のように入り組んでいく。
足元はぬかるみ、靴底が粘つく音を立てる。
空気は重く、肺の奥がじんわりと熱を帯び始めた。
ルミナの息が、フィルター越しに荒くなってきた。
「……もう、限界……足が、ふらつく……」
彼女はナギの背中を掴み、必死に歩を進める。
だが、疲労と瘴気の影響で、視界が揺れ始める。
そのときだった。
ルミナの足が、地面のぬめりに滑った。
「きゃっ……!」
小さな悲鳴が漏れる。
彼女はバランスを崩し、前方へ転びかけた――
直後、足元の菌糸がぱくりと裂け、彼女の体を絡め取った。
そこは浅い窪みで、底には無数の線虫が蠢き、腐敗した養分を貪っていた。
ルミナの体が、どぷりと音を立てて沈んだ。
「いやぁぁぁぁっ!!」
甲高い悲鳴が、菌腐穴に響き渡った。
線虫まみれのぬめりに全身を包まれ、彼女はパニックに陥る。
手足をばたつかせ、線虫を振り払おうとするが、それが逆に絡みつき、顔にまで這い上がってくる。
「やだっ……! こ……こないで!! 怖い……怖いっ!!」
涙が溢れ、息が詰まる。
文明育ちの彼女にとって、これは耐えがたい恐怖だった。
虫の感触、ぬめり、匂い――すべてが吐き気を誘い、理性が飛ぶ。
ナギは振り返り、一瞬で状況を悟った。
――このままでは、菌虫が異常を検知する。
パフの警告通り、穴全体が反応しかけていた。
咄嗟に、ナギはルミナの首元へ機械の義手を伸ばす。
彼女の首筋を軽く押さえ、意識を断つ。
「許せ……!」
ごつん、と鈍い音。
悲鳴は途切れ、静寂が戻る。
ルミナの体は力を失い、そのまま線虫の沼へずぶずぶと沈んでいった。
ナギは躊躇なくフィルターを投げ捨てた。
片手では救えない。それだけだ。
もう呼吸は出来ない。
線虫に埋まったルミナの体を、アークの腕で引き上げる。
無数の線虫がうねり絡みつき、彼女を底へ引き戻そうとまとわりつく。
それでも、ぬるり、ぬるりと剥がれ落ちていく。
――息を吸うな。
一吸いでも終わりだ。
視界の端がちらつく。
引き上げたルミナを脇に抱え、ナギは出口の微かな光を目指して駆け出した。
菌糸が伸びてくる。
天井から、壁から、無数の白い糸が蛇のように這い寄り、二人の足を絡め取ろうとする。
ナギはアークの腕の力でそれらを薙ぎ払う。
引きちぎり、踏みつけ、振り払いながら――前へ進む。
全力で、迷路のような菌糸域を突き進む。
足元が沈む。
虫の群れが背後でざわめき始めた。
境界を守るように、ただ蠢くだけ。視界が揺れる。
肺が悲鳴を上げる。
焦げた金属の匂いが鼻を刺す。
義手のピストンが過熱し、白い蒸気を噴き出す。
――止まるな。
出口の光が、近づいてきた。
その瞬間、白い糸が足首を掠め、皮膚が焼けるように熱くなった。
ナギは最後の力を振り絞り、跳ぶ。
菌糸の壁を蹴り破り、光の方へ身を投げた。
二人は転がり落ち、境界を越えて菌糸域を抜けた。
ルミナの身体は、ぐったりと力を失っていた。
唇が紫色に変わっていく。
「……くそ……!」
ナギは地面に膝をつき、ルミナの首元を探った。
脈は弱い。
呼吸は浅い。
気絶させた衝撃と、落ちた際に喉や口からわずかに瘴気を吸い込んだのだろう。
気を失っていたぶん、深く吸い込まずに済んだ。
頰に、薄く血が滲んでいる――菌糸が皮膚を傷つけた痕だ。
迷う時間はない。
ナギはルミナの頬に触れ、喉元の赤黒い痕を見た瞬間、
迷わず口をつけた。
血の味。苦い。吐き出す。
また吸う。吐く
ルミナの胸が、かすかに上下した。
「……戻ってこい」
声が震えていた。
呼吸が深くなる。まぶたが動いた。
「……ナギ……?」
砂に落ちる露のような、弱い声。
「もうだいじょうぶだ。穴は抜けられた」
ナギは、安堵の息を吐いた――が、その息は血の匂いを帯びていた。
ルミナは、自分の喉元に触れ、そしてナギを見た。
その瞳には、
恐怖でも、軽蔑でも、誇りでもない――
初めて見る、揺らぎがあった。
だが、その揺らぎは感謝ではなかった。
彼女の視線が、ナギの口元に落ちる。
唇の端に、赤黒い血がこびりついていた。
自分の血だと気づいた瞬間、ルミナの顔色が変わった。
「……それ? 私の……血なの……」
声が震え、喉がひきつる。
「安心しろ。毒はもう吸い出した」
ナギは淡々と言ったが、声はかすれていた。
喉の奥が焼けている。
菌糸域の毒を、少しは飲み込んでしまったのだ。
ルミナは、反射的に身体を引いた。
地面に手をつき、必死に距離を取る。
「やめて……私に触れないで……っ」
ナギは眉をひそめた。
「何を怯えている。助かったんだぞ」
そう言って立ち上がろうとした瞬間、膝が崩れた。
地面に片手をつき、息を吐く。
喉の奥が焼けるように痛む。
視界が一瞬、白く霞んだ。
――代償だ。
菌糸域の毒は、ナギの体にも入り込んでいた。
ルミナは、その様子を見て息を呑んだ。
「……そんな無謀なことをするからよ……」
「少し飲んだだけだ」
「“少し”って……!」
ルミナの声は震えていた。
怒りでも心配でもない。
もっと原始的な、拒絶と混乱の入り混じった声。
「なんで……そんな……汚い……こと……」
ナギは顔を上げた。
「汚い?」
「……口で……吸ったんでしょう……?
私の……血……」
ルミナは震える手で口元を押さえた。
吐き気を堪えるように。
「そんな……非文明的な……ありえない……」
言葉が続かない。
喉が詰まり、呼吸が乱れる。
ナギは、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「生きたかったんだろ」
ルミナは目を見開いた。
「生きたくなかったのか?」
その問いは、責めているわけでも、慰めているわけでもなかった。
ただ、事実を確認するような声だった。
「ええ、そうよ。死にたくなんてないっ
でも、無茶よ。」
胸の奥で、何かが崩れた。
文明も、清潔も、誇りも――
音もなく崩れ落ちていく。
あんなに汚いことをされたのに、肺の奥から熱が引いていく。
私の命を繋いだのが、彼の唇の感触だということが、
何よりも恐ろしかった
「……どうして……助けたの……?」
その問いは、もはや“感謝”ではなかった。
“理解できない”という叫びだった。
ナギは答えなかった。
ただ、血のついた手を払い、立ち上がった。
足元がふらつく。
毒がまだ体内に残っている。
背後では、菌糸の森が静かに蠢き、
二人を“外へ出した”だけだった。
ルミナは、震える手で自分の喉元を押さえながら、
ナギの背中を見つめた。
その視線には、感謝も信頼もなかった。
ただ――
価値観が崩れた後の、空洞のような揺らぎだけが残っていた。




