第2話:魂繭の楽園
暗い穴を、どこまでも転がり落ちていく。
砂の摩擦音はすぐに消え、代わりに湿った空気が肌に触れた。
どれほどの距離を滑り落ちただろうか。
暗闇の底から、柔らかな光が差し込んだ。
少年は、ゆっくりと目を開けた。
気絶した少女を抱えたまま、硬い岩肌の上に倒れ込んでいる。
……湿っている。
その事実に、まず思考が止まった。
空気が、肌にまとわりつく。
喉の奥に、甘い匂いが広がる。
「……ここは……?」
立ち上がった瞬間、足裏に“柔らかいもの”が沈んだ。
砂ではない。
乾いた地面でもない。
苔――という言葉を、彼は知らない。
ただ、
踏むと戻ってくる地面
というものを、生まれて初めて体験した。
視界が開けた。
そこには、信じられない光景が広がっていた。
高い高い天井から、蔓のような植物が垂れ下がり、
その一本一本が淡い光を宿している。
光が揺れるたび、湿った空気が微かに震えた。
そして――音。
さらさらと流れる水の音。
岩を伝って落ちる透明な滴が、霧となって舞い上がる。
少年は息を呑んだ。
胸が痛いほどに。
水が、動いている。
水が、音を立てている。
水が、こんなにも……ある。
外の世界は銀色の砂漠。
水は、ひと滴でさえ命の重さを持つ。
それが、ここでは川となり、滝となり、
惜しげもなく流れ落ちていた。
「……夢、なのか……?」
手を伸ばす。
まず義手の指先が水に触れた。
金属の表面を叩くような、鈍い感触。
冷たさは伝わるが、それはどこか“借り物”の温度だった。
ただの数値として皮膚に届くような、現実味の薄い冷たさ。
次の瞬間、生身の手が水をすくった。
――息が止まった。
冷たさが、指先から掌へ、腕へと一気に駆け上がる。
皮膚が震え、血がざわめき、背筋が粟立つ。
水が“生きている”と、身体が勝手に理解した。
義手では決して味わえない、
生きた水の感触だった。
さらに、甘い香りが鼻をくすぐった。
見上げると、枝に鈴なりの果実。
色とりどりで、陽炎のように香りが漂っている。
砂漠の食糧は、乾燥肉と硬い根菜だけ。
“香りのある食べ物”など、彼は知らない。
胸の奥がざわついた。
恐怖とも、憧れともつかない感情。
そして――生き物たち。
旧世代の生き物たちが、当たり前のようにそこにいた。
見たこともない小さな獣が、好奇心に満ちた目でこちらを覗き込む。
少年は思わず後ずさった。
世界が、あまりにも“生きすぎて”いた。
少年は少女をそっと抱き直し、彼女の浅い呼吸を確かめる。
その胸は、かすかに上下していた。
少女は、眠っている。
その眠りは、どこか苦しげで――深い深い底へ沈んでいくようだった。
* * * *
――彼女が、見る夢。
宇宙船の「ブリーフィング室」。
無菌室のように白く、冷たい空間。
整然と並ぶ席には、遺伝子調整で生まれた“完璧な容姿”のエリートたちが座っている。
その輪のいちばん外側に、彼女だけがいた。
席に腰を下ろした瞬間、近くの椅子が、かすかに軋む音を立てて離れていく。
視線は決して正面からは向けられない。
代わりに、ガラス越しのひびのような囁きが、白い部屋を這っていく。
「……まだいるのか、ああいうの」
「親の腹から、だって」
「検査は通ってるんだろうな」
はっきりとは聞こえない。
それでも、自分の輪郭だけがこの空間から浮き上がっていくのがわかる。
彼女は唇を噛み、支給された「培養肉」を喉に押し込んだ。
(私は、あなたたちと同じ文明人よ。
野蛮なんかじゃない)
味は、何ひとつ感じなかった。
そのとき、上官が現れた。
冷徹な管理者の男は、彼女の前で立ち止まり、感情の色を欠いた目で見下ろす。
「喜べ」
乾いた声だった。
「廃棄物にも、役割が与えられた。
お前に『先遣隊』の“名誉”をやろう」
「……先遣隊?」
自分の声が、自分のものではないように震える。
「先遣隊は、違反者のみで組まれるのでは?」
「お前のような『禁忌の子』が市民権を得るには、それしかない」
上官は淡々と言う。
「死んで役に立つか、成果を持ち帰って土下座するかだ」
周囲で、小さな笑いが弾け、すぐにかき消えた。
誰も彼女を見ていないふりをしながら、確かに見ていた。
「行きます」
彼女は震える手を胸の前で握りしめ、
それでも逃げられないと知っていた。
掌に埋め込まれた識別チップを、
無機質な承認端末へそっと押し当てる。
淡い光が走り、冷たい電子音が響いた。
――承認。
その一語が、彼女の未来を閉じた。
乾いた喉から、ようやく言葉を押し出す。
「必ず、任務を遂行してみせます」
それだけが、自分が“汚れ物”ではないと証明できる唯一の道だと信じた。
――私は汚くない。
――私は廃棄物じゃない。
白い光が、ゆっくりと遠ざかっていく。
* * * *
少女の身体が、わずかに動いた。
少年は慌てて彼女を地面に下ろし、近くの川から水をすくって口元に運ぶ。
冷たい水が、少女の唇を濡らす。
「……ん……」
少女の瞼が震え、ゆっくりと開いた。
まぶたの裏に、まだ白い光が残っているようだった。
淡い青みがかった瞳が、少年を捉える。
「ここは……?」
「大丈夫か?」
目の前に、少年がしゃがんでいた。
砂にまみれた肌。粗末な布。
そして――義手。
(機械の……代用品?)
その瞬間、彼女の胸に、あの白い部屋の冷気が蘇る。
囁き。視線。拒絶。
“異物”として扱われた記憶が、反射のように口を動かす。
「こっちに来ないで、野蛮人」
その言葉は、彼女自身の意思よりも早く、
恐怖と条件反射が吐き出したものだった。




