↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/22

第1話:乾いた世界

 砂の海が、夜の冷気をわずかに残した乳白色の霧に沈んでいるうちに、村は目覚める。

 霧は湿り気を持たず、触れれば粉のように散る。


 風見の塔で、当番の古老が湿らせた指を空に突き立てた。

 乾いた風が、塔の穴を通り抜けボォォと鳴った。


「……風が変わった。そろそろ砂鯨(すなくじら)が上にあがってくる頃だぞ」


 その声に応えるように、村の男たちが骨槍を担ぎ、砂海へと歩み出す。

 彼らが乗り込むのは、風を孕む巨大な帆布と、砂を蹴るための木の車輪を備えた奇妙な舟――「砂駆け(すながけ)」だ。

 帆が風を受けるたび、乾いた布の音が砂漠に吸い込まれていく。


 この世界は、乾ききっていた。

 かつて海と呼ばれた場所は、果てしない砂漠となり、人々は残されたわずかなオアシスにしがみつき、風を読んで生きている。

 風が止むことは、すなわち死を意味した。


 ――それでも、砂の深淵には、まだ「なにか」が生きている。



 キィィン、と金属が軋む音が響く。

 少年は、愛用の砂駆けの帆桁(ほげた)を点検していた。

 右腕は肩から先が真鍮(しんちゅう)と歯車で組み上げられた義手。

 冷たい朝の空気の中で、関節のピストンが白い蒸気を吐く。


「義手の調子はどうだ。砂を噛ますなよ!」


「分かってるよ、ガラン」


 少年は防塵ゴーグルを首にかけ、骨銛を背負うと、誰よりも早く砂海へと舟を走らせた。

 義手の指先が微かに震え、砂の下の“音”を拾っている。

 生身では感じられないほどの細い振動が、歯車を通して骨に伝わる。


 砂丘の向こうで、巨大な影がゆっくりと蠢いた。

 砂鯨だ。

 体長十メートルの巨体が、砂海の底を泳ぐように進むたび、雲母の混じった砂が高く舞い上がる。

 飛沫は朝日の残光を浴びて、無数の銀の鱗となってきらめき、光芒のように四方に散った。


「来るぞ!」


 ナギは義手の指先を、砂面に深く突き刺した。

 砂粒の摩擦音、深淵から響く重低音――それらが義手の内部で共鳴し、位置と深度を告げる。


 三百歩先、深度十五メートル。

 砂鯨の影がそこにいる。


 叫びと同時に、砂の海が爆ぜた。

 銀色の尾びれが太陽光を弾き、砂煙が舞い上がる。


 その時だった。


 ――風が変わった。


 少年は動きを止め、再び砂に義手を差し入れる。

 砂の震えが、さっきまでと違う。

 風の“言語”が乱れている。


「砂が鳴き方が変だ。」


 その一言に、周囲の大人たちが凍りつく。


「来るのか!? 嵐が」


 足元の岩が、かすかに震えた。

 風圧が、すでに地面を叩いている。

 追っていた砂鯨が、一瞬で姿を消した。


「獲物が逃げた?」


「違う……俺たちからじゃない。何かに怯えてる」


 ガランが叫んだ。


「退避だ! 全舟、防風洞へ逃げ込め! 岩嵐が来るぞ!!」


 その声は裏返り、砂海に吸い込まれるように響いた。


「砂蠏(すながに)も放つのか!?」


 別の漁師が叫ぶ。


「今は重荷になるだけだ、全部放てっ!」


 ナギは網の留め具を切った。

 砂蠏たちは一斉に砂海へ散り、瞬く間に姿を消す。


 無風のときには舟を押し進める頼もしい動力だが、

 嵐の中では逆に足を引っ張る。

 砂蠏は帰巣本能が強い――嵐さえ過ぎれば、また自ら戻ってくる。


 そのとき、砂海の底で大きな揺れが走った。

 砂鯨たちが、一斉に深層へ潜り始めている。


 本能が告げているのだ。


 ――これは、ただの嵐ではない。


 直後、空が急激に暗転した。


 太陽を押しつぶすようにして、それは姿を現した。

 音もなく、ただ圧倒的な質量としてそこに在る、漆黒の立方体。


「なんだ!? あの黒匣(くろばこ)は……浮いているぞ」


 一人の漁師が、腰を抜かして空を指差す。

 その声は震え、砂を噛んだ。


「おい、見ろ! 空が……空が食われる」


 白銀に輝く無辺の空は、窓一つない「黒い匣」によって塗りつぶされていく。

 一辺が十キロはあるだろうか。

 岩のようでも、錆びた鉄の塊のようでもある。

 無数の溝が青白く光り、ブォォォンという重低音が砂を震わせた。


 黒い城塞の腹が開き、何かが零れ落ちてくる。

 白磁(はくじ)のような流線型の飛行機械たち。

 禽(きん)の羽のような翼を広げ、優雅に滑空する。


 その編隊の後方に、異質な輝きがあった。

 白い衣をまとったかのように、砂漠には似つかわしくない眩耀(げんよう)。


 少年は、ゴーグル越しにその光景を見て息を呑む。

 光の帳を割って現れたのは、白い少女だった。

 風が、彼女の周囲だけを避けて流れている。


 ガランが呟く。


「あいつら、死ぬぞ」


 地平線の彼方から、ゴォォォォという地鳴りが響いてきた。


 この風の“鳴き方”は、岩嵐じゃない――

 嵐竜巻の前兆だ。


「竜が啼くぞ!」


 その一声で、場の空気が凍りつく。


 風が、実体を持った怪物のように荒れ狂い。

 竜巻が何本も発生した、黒い砂の柱となって天と地を繋ぎ嵐竜巻となる。


 岩が砕かれ破片となって襲いかかる。

 光がねじれ、空が潰れる。


 翼は瞬く間に嵐竜巻にあおられ、木の葉のように浮き上がる。

 白い翼が折れ、先遣隊は塵のように吹き飛ばされていった。


 砂の津波が、地平線ごと押し寄せる。


 その暴風の中、少女の小さな体が折れた翼と共に吹き飛ばされ、砂丘の裏側へ叩きつけられた。


「助けに行く!」


「無茶だ、やめろ!」


 ガランの制止を振り切り、ナギはレバーを全開にする。

 義手の関節が軋み、蒸気が噴き出す。


「行かなくちゃ……風が、あの子を呼んでる!」


 砂礫が頬を切り裂く中、ナギは嵐の中心へと突っ込んでいった。


 少女が落ちた場所は、砂が渦を巻く蟻地獄のようになっていた。

 半ば砂に埋もれた少女を抱き起こすと、その体は驚くほど軽く、冷たかった。


「おい! しっかりしろ!」


 ゴォォォォン!

 すぐ近くで竜巻が岩を砕いた。

 砂の壁が、津波のように押し寄せてくる。


 ――もう村へは戻れない。


 少年は少女を抱きしめ、周囲を見渡す。

 そこにそびえる白い巨塊――繭山(まゆやま)。

 村人は皆言う。「繭山の黄泉穴(よもつあな)に近づくな」と。


 風が一瞬だけ止んだ。

 世界が呼吸を忘れたような静寂。


 少年は覚悟を決め、義手の力を込めて少女を抱え上げる。


 背後から、全てを飲み込む砂の竜が迫る。


 それでも、少女を置いていくという選択肢はなかった。


 生きて戻れる保証はない。


 少女を抱きかかえたまま、少年は黄泉穴へと身を投げた。


 二人は転がり落ち、

 繭山――魂繭(たままゆ)に、飲み込まれていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。