第1話:乾いた世界
砂の海が、夜の冷気をわずかに残した乳白色の霧に沈んでいるうちに、村は目覚める。
霧は湿り気を持たず、触れれば粉のように散る。
風見の塔で、当番の古老が湿らせた指を空に突き立てた。
乾いた風が、塔の穴を通り抜けボォォと鳴った。
「……風が鳴った。そろそろ砂鯨が上にあがってくる頃だぞ」
その声に応えるように、村の男たちが骨槍を担ぎ、砂海へと歩み出す。
彼らが乗り込むのは、風を孕む巨大な帆布と、砂を蹴るための木の車輪を備えた奇妙な舟――「砂駆け(すながけ)」だ。
帆が風を受けるたび、乾いた布の音が砂漠に吸い込まれていく。
この世界は、乾ききっていた。
かつて海と呼ばれた場所は、果てしない砂漠となり、人々は残されたわずかなオアシスにしがみつき、風を読んで生きている。
風が止むことは、すなわち死を意味した。
――それでも、砂の深淵には、まだ「なにか」が生きている。
キィィン、と金属が軋む音が響く。
少年は、愛用の砂駆けの帆桁を点検していた。
右腕は肩から先が真鍮と歯車で組み上げられた義手。
冷たい朝の空気の中で、関節のピストンが白い蒸気を吐く。
「義手の調子はどうだ。砂を噛ますなよ!」
「分かってるよ、ガラン」
少年は防塵ゴーグルを首にかけ、骨銛を背負うと、誰よりも早く砂海へと舟を走らせた。
義手の指先が微かに震え、砂の下の“音”を拾っている。
生身では感じられないほどの細い振動が、歯車を通して骨に伝わる。
砂丘の向こうで、巨大な影がゆっくりと蠢いた。
砂鯨だ。
体長十メートルの巨体が、砂海の底を泳ぐように進むたび、雲母の混じった砂が高く舞い上がる。
飛沫は朝日の残光を浴びて、無数の銀の鱗となってきらめき、光芒のように四方に散った。
「来るぞ!」
ナギは義手の指先を、砂面に深く突き刺した。
砂粒の摩擦音、深淵から響く重低音――それらが義手の内部で共鳴し、位置と深度を告げる。
三百歩先、深度十五メートル。
砂鯨の影がそこにいる。
叫びと同時に、砂の海が爆ぜた。
銀色の尾びれが太陽光を弾き、砂煙が舞い上がる。
その時だった。
――風が変わった。
少年は動きを止め、再び砂に義手を差し入れる。
砂の震えが、さっきまでと違う。
風の“言語”が乱れている。
「砂が鳴き方が変だ。」
その一言に、周囲の大人たちが凍りつく。
「来るのか!? 嵐が」
足元の岩が、かすかに震えた。
風圧が、すでに地面を叩いている。
追っていた砂鯨が、一瞬で姿を消した。
「獲物が逃げた?」
「違う……俺たちからじゃない。何かに怯えてる」
ガランが叫んだ。
「退避だ! 全舟、防風洞へ逃げ込め! 岩嵐が来るぞ!!」
その声は裏返り、砂海に吸い込まれるように響いた。
「砂蠏も放つのか!?」
別の漁師が叫ぶ。
「今は重荷になるだけだ、全部放てっ!」
ナギは網の留め具を切った。
砂蠏たちは一斉に砂海へ散り、瞬く間に姿を消す。
無風のときには舟を押し進める頼もしい動力だが、
嵐の中では逆に足を引っ張る。
砂蠏は帰巣本能が強い――嵐さえ過ぎれば、また自ら戻ってくる。
そのとき、砂海の底で大きな揺れが走った。
砂鯨たちが、一斉に深層へ潜り始めている。
本能が告げているのだ。
――これは、ただの嵐ではない。
直後、空が急激に暗転した。
太陽を押しつぶすようにして、それは姿を現した。
音もなく、ただ圧倒的な質量としてそこに在る、漆黒の立方体。
「なんだ!? あの黒匣は……浮いているぞ」
一人の漁師が、腰を抜かして空を指差す。
その声は震え、砂を噛んだ。
「おい、見ろ! 空が……空が食われる」
白銀に輝く無辺の空は、窓一つない「黒い匣」によって塗りつぶされていく。
一辺が十キロはあるだろうか。
岩のようでも、錆びた鉄の塊のようでもある。
無数の溝が青白く光り、ブォォォンという重低音が砂を震わせた。
黒い城塞の腹が開き、何かが零れ落ちてくる。
白磁のような流線型の飛行機械たち。
禽の羽のような翼を広げ、優雅に滑空する。
その編隊の後方に、異質な輝きがあった。
白い衣をまとったかのように、砂漠には似つかわしくない眩耀。
少年は、ゴーグル越しにその光景を見て息を呑む。
光の帳を割って現れたのは、白い少女だった。
風が、彼女の周囲だけを避けて流れている。
ガランが呟く。
「あいつら、死ぬぞ」
地平線の彼方から、ゴォォォォという地鳴りが響いてきた。
この風の“鳴き方”は、岩嵐じゃない――
嵐竜巻の前兆だ。
「竜が啼くぞ!」
その一声で、場の空気が凍りつく。
風が、実体を持った怪物のように荒れ狂い。
竜巻が何本も発生した、黒い砂の柱となって天と地を繋ぎ嵐竜巻となる。
岩が砕かれ破片となって襲いかかる。
光がねじれ、空が潰れる。
翼は瞬く間に嵐竜巻にあおられ、木の葉のように浮き上がる。
白い翼が折れ、先遣隊は塵のように吹き飛ばされていった。
砂の津波が、地平線ごと押し寄せる。
その暴風の中、少女の小さな体が折れた翼と共に吹き飛ばされ、砂丘の裏側へ叩きつけられた。
「助けに行く!」
「無茶だ、やめろ!」
ガランの制止を振り切り、ナギはレバーを全開にする。
義手の関節が軋み、蒸気が噴き出す。
「行かなくちゃ……風が、あの子を呼んでる!」
砂礫が頬を切り裂く中、ナギは嵐の中心へと突っ込んでいった。
少女が落ちた場所は、砂が渦を巻く蟻地獄のようになっていた。
半ば砂に埋もれた少女を抱き起こすと、その体は驚くほど軽く、冷たかった。
「おい! しっかりしろ!」
ゴォォォォン!
すぐ近くで竜巻が岩を砕いた。
砂の壁が、津波のように押し寄せてくる。
――もう村へは戻れない。
少年は少女を抱きしめ、周囲を見渡す。
そこにそびえる白い巨塊――繭山。
村人は皆言う。「繭山の黄泉穴に近づくな」と。
風が一瞬だけ止んだ。
世界が呼吸を忘れたような静寂。
少年は覚悟を決め、義手の力を込めて少女を抱え上げる。
背後から、全てを飲み込む砂の竜が迫る。
それでも、少女を置いていくという選択肢はなかった。
生きて戻れる保証はない。
少女を抱きかかえたまま、少年は黄泉穴へと身を投げた。
二人は転がり落ち、
繭山――魂繭に、飲み込まれていった。




