第10話:初日、客ゼロ。それでも包丁を置かなかった理由。
俺の、屋台での初日の営業が始まった。
仕込みもバッチリ。下拵えもよし。あとはお客さんが来るだけ。
そうして、俺は、包丁を研ぎながら、来客を待っていた。
屋台の暖簾が上がった。今日初めての客がやってきた。
「邪魔するよ……って、いつものオヤジさんは?」
暖簾を上げた客が、俺に問いかけた。
「……お休みでして。今日は私が」
「……そうかい。じゃ、また今度にするよ。オヤジさんの一品で飲みたかったんだがね……」
そうして、最初の客は、帰って行った。
また、客がやってきた。最初の客と同じ対応だった。
夜が更けていく。この屋台の常連客らしき人たちは、多くやってきた。
しかし、その誰もが、「オヤジさんがいないなら……」と帰って行った。
この夜は、そんな会話が繰り返され続けた。
「なんだ、兄ちゃんか。悪いけど、あのオヤジさんの、適当な煮込みが食いたかったんだよ」
などとも言われた。
常連客の、店主への信頼は絶大だった。これが「やめようと思っていた屋台」?俺はとても信じられなかった。
逆に「見慣れぬ店主」である俺は、全く「信用されていなかった」。自分も客の立場だったら、同じことをするかもしれない。客の気持ちがわかるだけに、歯痒くも、納得し、受け入れるしかなかった。
最高級の真鯛を仕入れ、飾り切りまで施した。ホテルなら一皿数千円は下らない仕上がりだ。
しかし、誰の口にも運ばれなければ、それはただの生ごみと変わらない。
俺が注いだ技術も、こだわりも、この静まり返った路地裏では何の価値も持たなかった。
たとえ、客が来なくても、仕込みや下拵えの手は抜けなかった。
もし、たった一人でも来たとき、「今日は準備していません」と言う自分には、なりたくなかった。
結局、初日の客はゼロだった。正直、俺の心は折れかけていた。
「……店主、あなたの築き上げた『信頼』を、俺は引き継げないかもしれない……」
屋台を畳み、帰路の途中で、俺は、店主にそう告げた。
「まだ初日じゃろ。諦めが早いのう。客がゼロなんて、珍しくもないわい」
店主は、何も気にすることではない、と、ホッホッホと笑ったのだった。
次回予告:
屋台の客は、ホテルの客とはまるで違っていた。
その違いが、俺の価値観を揺さぶる。




