第1話:あの日、俺はすべてを失った――はずだった。
あの日、俺が積み上げてきた15年は、たった1枚の解雇通知と、婚約者の「生理的に無理」という一言でゴミ箱に捨てられた。俺の出す料理に、間違いなどあるはずがなかった。俺は師匠の教えを守り、また、それを超えるために精進していた。その俺が「非効率・古臭い」を理由に解雇されたのだ。だが、彼らは知らなかった。俺が捨てたのは肩書きだけで、この両手にある『味』までは捨てていないことを。
ただ、あの瞬間。俺はすべてを失った――そう思っていた。
「……俺を解雇?なんの冗談だ?」
俺の弟、このホテルの新社長の言葉に、俺は、理解が追いつかなかった。
このホテルの総料理長として、ホテル全般の食事の監修・総指揮を任されている俺が、解雇だと?
「兄さん、あなたのやり方は、非効率で、古臭いんですよ」弟の声は静かだった。
「このホテルの経営方針を刷新します。効率の悪い部分は、排除していきます。その第一歩が、この刷新です。出汁をとるのに4時間もかけるのは無駄です。これからはAIが調合した濃縮還元スープを使います」
「兄さん、この濃縮還元スープと、あなたの4時間かけた出汁、客には違いなんて分かりませんよ」
弟が差し出したスープを、俺は一口も飲まずに香りを嗅ぎ、横にある鍋の火を止めた。
「……右から二番目のコンロ、火力が0.5ミリ分強い。スープの底がわずかに焦げ始めている。AIのセンサーは、鍋の個体差による熱伝導の歪みまで計算に入れているのか?」
弟の顔が、一瞬だけ強張った。
「……兄さん、残念ながら、これは決定事項なんです。修正はできません」
「……なんだと……」俺の声は震えていた。
「このホテルの格式を、効率を理由に捨てる気か!」
「違いますよ。効率化して、より格式を上げるのです」弟の言葉は、冷たかった。
「非効率、古臭い慣習は、切るべきなのです。お客様の求めていることを効率よくこなし、提供する。それこそが『格式』ですよ、兄さん」
「ですから、明後日付けであなたは解雇――このホテルには不要です」それが、弟からの最後通牒の言葉だった。
その日の夜。俺は、婚約者の待つ部屋に戻った。
「……聞いたわ」
彼女は、俺の顔を見ようともしなかった。
「解雇、ですってね」
「ああ。突然だ」そう答えた俺に、彼女は小さく息を吐いた。
「正直に言うね」彼女が言った。
「あなたといると、将来が見えないの」
「……なんだって?」彼女の言葉に、俺は耳を疑った。
「もう……無理なの。あなたの料理に人生を賭ける姿が、生理的に」
その言葉は、弟の解雇通告よりも、深く刺さった。
「……総料理長、聞きましたよ」副料理長の声が聞こえた。
「……あぁ……情けない話だ……このホテルの『格式』を、新社長は何もわかっちゃいない」
「いえ、私はそう思いません」副料理長が言った。
「効率は大事です。意味のない古臭い慣習も捨てるべきかと」
「なんだと?」思わず俺は声を上げてしまった。忠実な俺の右腕だった副料理長が、そんなことを言うとは。
「……あなたのやり方は『古い』のです。これからは、私が、このホテルの総料理長として、改革を進めていきます」
――お前、俺があの時教えた『火加減の極意』すら、もう忘れたのか……。
新社長は、副料理長まで、すでに懐柔していたのか。その時、俺は悟った。
そうして、俺は、職場と婚約者を同時に失ったのだった。
次回予告:
彼が「古臭い」と切り捨てられるまで、その包丁は、何を積み上げてきたのか。
超一流ホテルの厨房で、15年分の答えが語られる。




