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9 パラレルワールド


 芳醇なコーヒーの香りが室内に満ち、穏やかな午後を演出していた。


 考えても答えが出ない問題にぶち当たったとき、あきらめて気分転換する方がいい、そういう建設的な意見を述べようとしたとき、玄関のドアが乱暴に開かれる音がした。風が吹き込み、襖をどんと鳴らした。

「えぇー、なんかするでしょぉ」

 甘ったるい猫なで声がする。

「ぜってぇ、なんもしないってえ」

 次いで男の声がした。

 呂律が回っていない。

 やばい、と警鐘が脳内に響くが、すでにどうしようもない段階に来ていた。


 襖が開けられる。

「あ」

 俺と戸部、それから敷居の向こうの赤ら顔の男女が同時に声をあげた。

 昼間だというのに、アルコールの臭いがした。


「な、なんでまだいんだよ!」

 金色に髪を染めた女が叫ぶ、戸部は無表情に「出掛けたんじゃなかったの?」と平坦な語調で尋ねた。

「予定が変わったんだよ! はやく出ていきな、男まで連れ込んで!」

 俺を指差し、女がヒステリックに叫ぶ。状況が読み取れない。

 歳にして三十前半と言ったところだろうか。厚化粧だが整った顔立ちの女性が、戸部を怒鳴り付けた。

 語気を荒らげる女の横には髪をツンツンに立たせた若い男性おり、俺と同様状況が読み取れないらしく、オロオロと戸惑っていた。

「どっか行ってろって言っただろ! 早く出ていきなよ! 帰ってくるんじゃないよ!」

 戸部は無表情のまま立ち上がると、机の上のノートをバッグに乱暴に突っ込み、無言で家から出ていった。一人取り残されるわけにもいかないので、慌てて少女に続いて、「お邪魔しました」と戸部邸を後にした。


 アパートから道路に出て、しばらく歩いてから、戸部は申し訳なさそうに眉をしかめて俺を見つめた。

「ごめんね。まさか母さんが帰ってくると思わなくて……」

「母さん? さっきの女の人が!?」

「あ、うん、一応」

 俺はてっきり姉かと思っていたが、まさか母親とは。混乱する俺とは対照的に戸部は落ち着いている。

「ねぇ、青村くんってスマホ持ってるよね? ホテルの予約をしてほしいんだけど」

 俺のポケットを指差して聞いてきた。

「ほ、ホテル? なんの!?」

「……普通の……ビジネスホテルとか」

「あ、そ、そう、え、なんで?」

「実は母親から、お客さんが泊まりに来るから家を開けろって言われてて、友達の家に泊まることで一泊ごまかしたはいいいんだけど、まさか今日もいると思わなくて」

「え、じゃあお前今日どうするつもりだったの?」

「当初の予定だと昨日の夜に母親とお客さんが家で一泊して今日の朝に旅行に出かける予定だったんだけど。予定が遅れてるのかな。……なんであの人帰ってきたんだろうね」

「いや、知らねーよ」

「まあいいや。とりあえずビジホ予約しなきゃ」

「お金は?」

「……」

 無言になった少女に俺は浅くため息をついた。推してしかるべきである。

「少しくらいなら貸してやるけど、どのみち未成年じゃ無理じゃね?」

 もうすぐ母の日でもある。なんだか酷くやるせなかった。俺たちはまだ中学二年生だ。

 日差しが降り注ぐなか、スマホで近くのビジホを検索し、電話をかける。


 電話口の社員さんはとても丁寧に、中学生のみの宿泊は不可であると教えてくれた。数件のビジネスホテルに電話してみたが、答えは全て同じだった。同意書と親が予約してきた場合のみ許可しているところもあるにはあったが、その事を戸部に告げると悲しそうに瞳を伏せるだけだった。

 手詰まりである。

 どうする、とスマホをポケットにしまってから目で尋ねると少女は少しだけ涙目になった。

「友達の家に行く」

「誰の?」

 返事はなかった。

 いくら人気者といえど、彼女はケータイを持っていないので友達と連絡の取りようがないし、クラスメートの電話番号を俺は一人として知らなかった。強いて言えば昨日泊めてもらった女子の家があるが、ゴールデンウィークに合わせて家族旅行の真っ最中らしく、望みは限りなくゼロだった。

「あっ、そうだ! 漫画喫茶とか! 一回行ってみたかったんだ!」

「たしか未成年者は泊まれないと思うよ」

「そ、そうなんだ。えっと、それなら公園で寝るしかないのかな。うん、そうするよ。夜も最近は過ごしやすいし」

「補導されるのがオチだろ。素直に家に帰れよ」

「……わかったよ」

 親に出ていけと言われて熱くなっているだけだ。少しだけ頭を冷やすように言い、俺は家に帰ることにしたのだが、「ついてきて」とすがるようにお願いされたので断り切れず、あとをついていくことにした。空には鯉のぼりが泳いでいて、こどもの日が近いことを思い出した。

 結果から言うと、彼女の家の壁が薄くて、母親は声がデカく、男女の営みが漏れ聞こえるほどで、家に帰れるような雰囲気ではなかった。


 木造アパートの壁は点々と黒い染みがあり、手すりには住民の私物と思われる傘がいくつもかけられていた。お世辞にも綺麗な環境ではない。

「どうしよう……」

 昼だというのに途方にくれる。

「なんで、私ってこんな……、こんなことなら、一人で眠れるところぐらい調べておけば良かった……」

 アパートの階段に力無く座り込む。

「パラレルワールドがあるなら、隣の世界の私は幸せなのかな」

 ぼそりと少女は呟いた。

 物事にはさまざまな可能性がある。たとえば二又に別れた道を左進んだ世界の隣には、右に進んだ世界が存在している。

 涙を流して震える少女も隣の世界では笑っているかもしれない。

 だったらいいなと思ったが、それではこちらの世界の少女は救われない。

「あのさ」

 日が高いうちに方案を練らなければならないが、みんながハッピーになれる答えを俺は一つだけ持っていた。

「うちくるか……?」

 提案した方も顔が真っ赤だし、提案を受けた方も顔が真っ赤だった。


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