8 哲学的ゾンビについて
部屋は掃除をするまでもなく綺麗だった。整理整頓されているから、というわけではなく、生活感がまるで無かったからだ。
以前来たときは靴が溢れかえっていたが、今はそんなこともなく、チリひとつとして転がっていなかった。ビックリするくらい綺麗な部屋だ。
生活に必要な最低限のものしか室内には置いていない。娯楽道具と呼べるものは一切なく、書籍やパソコンはおろか、テレビすら置いていなかった。
「なんでこんなに片付いてるの?」
つい一ヶ月ほど前に訪れた時も確かに綺麗ではあったが、今回は整理整頓というより、引っ越し前というような感じだった。
「キミが家に来るから少しはきれいにしようと思って」
その発言は矛盾していた。
俺の役割は彼女の身の回りの世話である。なのに、時間を割いて掃除をしたら、本末転倒もいいところだ。
「さ、やろうか」
机を引っ張り出して、ノートを広げる。
「あ、これ、今までの話を書いてみたんだ。読んでくれない?」
「ああ、見せてもらうよ」
ノートを素直に受け取って、開く。紙とインクの匂いが鼻を優しく刺激する。
中を読んでいる間に彼女はペンを無言で動かしはじめた。まずはアナログで作成してからパソコンに打鍵するのが彼女の執筆スタイルだった。もっとも戸部の家はインターネットに接続できる環境が整っていないので、完成したら俺がUSBメモリに保存し、印刷して、投稿する予定になっていた。
文字数にしたら、三万文字程度だろうか。
シャーペンが紙の繊維を引っ掻く音が、ただ室内には響いていた。
一時間ほどして読み終わり、顔を上げると少女は不細工な顔をし、腕を組んで「うーん」と唸っていた。
俺の視線に気づくと顔をあげ、「どうだった?」と嬉々とした表情で聞いてきた。
「つまんない」
正直な感想を伝えると少女はショックを受けたように項垂れ、上目遣いで俺を見た。
「どこがダメ?」
「やっぱこの主人公に感情移入することはできない。機械みたいなんだもん」
「機械?」
「そう。心情がなく、作者が都合よく動かしているだけ、みたいな」
「……鋭い指摘ね」
戸部はため息をついて立ち上がった。床が足音で軋む。そのままの足で台所に行くと、ヤカンに火をかけ、俺に「コーヒーいる?」と聞いてきた。素直にお願いする。
「自分の人生がさ、誰かに操られていると感じたことはない? ただレールの上を歩いている、というか」
びり、とコーヒーの袋を破く音が響く。
「まあ、この年齢になるとそういうことを考えるようになるわな」
少しだけ斜にかまえて返事する。
「なんか嫌なことでもあった?」
俺の問いかけに少女は少し無言になって小さな声で、「なんでもない」と呟いた。
ヤカンが沸騰する音が響き、続いてトクトクと湯を注ぐ音がした。
戸部が盆をもって「はい、コーヒー」と湯飲みを俺に差し出す。砂糖とミルクもついていた。
「たまにね、私以外はみんなロボットじゃないかと思うことがあるの」
「俺はお前に操られてるってことか?」
「違う。哲学的ゾンビと同じ状態だと思うってこと」
「なんだそれ」
「物理的反応は普通の人となんら変わりないけど意識を持たない人間のことよ。例えば私が腕に包丁刺したら凄く痛がって泣き叫ぶけど、他の人は痛がってるふりだけで、ほんとは痛くないんじゃないかなって」
「……?」
「分かりやすく言えば現実と思って接している人はみんなプログラムで、個人意識がないってこと。自分以外は、ね」
「なるほど、だからロボットか。でもそれを言ったら自分だってプログラムされた人間かもしれないぜ?」
「一ヶ月前に自己の同一性に話をしたでしょ? その時に言い忘れたけど、それについては一種の証明のしかたがあるの。唯我論というね」
ズズズっとお茶をすすって少女は俺を見つめた。
「コギトエルゴスム」
「え?」
「我思うゆえに我あり、デカルトの言葉よ。自分の意識だけはあるってはっきりわかるでしょ? だから、哲学的ゾンビは自分には該当しないの」
なるほど、それは間違いない。
デカルト、深けぇなー。なんてバカなことを考えながら、俺は深く頷いて、彼女が淹れたコーヒーをすすった。苦くて熱かった。
「唯我論は逆に、自分の意識以外正しいものはないと考えることがあるわ。例えば私が眠っている間、世界は存在しなくて、目が覚めた瞬間に世界が構築されている、そんな可能性だってある。だけど自分の意識だけは間違いないとするの」
凄まじい暴論だ。
「そんな考え方があるなかで、自分の創作物にたいして明瞭な意思を与えるなんて不可能よ」
「また拗らせた考え方してるな」
「だけど私は操り人形の主人公に意思の力を与えたいの。明確な行動理念を与えるにはどうしたらいいと思う?」
「知らないよ。そんなの」
あきれ返った俺の言葉に少女はがっくりと項垂れた。
コーヒーの湯気がじんわりと登って消えていった。




