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7 囚人のジレンマ


 麗らかな日差しが降り注ぐ。小鳥の囀ずりが平和を歌っているようだった。祝日の午後、日向ぼっこには最高の陽気だった。

「物事は流動的、確かに状況で変わってくる。私が出した問題も答えなんてない。だけどね、例えば経済学では人間は常に合理的に行動すると仮定して成り立っているの」

「経済学?」

 いままで彼女は倫理学や哲学、そんな感じの話ばかりだったので、突然経済学が出てくる意味がわからなかった。

「合理的、因習や心情にとらわれず論理的に行動するという意味よ。安ければ安いほど需要は増える。そういう考え方。それを踏まえた上で、ゲーム理論に囚人のジレンマと呼ばれるものがある」

 ジレンマ、とはたしか板挟みという意味だ。あちらを立てればこちらが立たず、といった風な。美味しいケーキがあるけど、ダイエット中、みたいな。

「共犯である二人の囚人を相談できないよう隔離した状態で司法取引を持ちかける。

 二人とも黙秘の場合は証拠不十分で懲役二年、片方のみ自白したの場合は自白した方を釈放し黙秘し続けた方を懲役十年、二人とも自白の場合は二人とも懲役十年。

 二人とも黙秘した方が最適な状態になるにもかかわらずお互いがお互いを出し抜こうとして、もっとも不都合な選択をしてしまう。どんなに相手を信頼していたとしても、裏切られる恐怖から自分が先に裏切ってしまうという、理論よ」

「……」

 正直いうと、口頭だけではよくわからなかったが、裏切られて不利益を被るくらいなら先に裏切ってしまえ、という意味だろうか。

 それによって全体にとって、最悪な結果を招いてしまうと。

「なんか今まで出された問題と違ってしっくりくる答えがあるんだな」

「これは思考実験じゃないもの。人間は常に合理的に行動する、経済学はその考えが大前提なの。お金は多い方がいい、地位は高い方がいい、愛は多い方がいいし、友達は多いほうがいい。正義だって同じ。誰か一人を救うより、大多数を救う方がいい」

「……戸部?」

「だけど、自分の都合を考えたとき、必ずしも大勢を救うとは限らない。疑心暗鬼に陥ったら最悪な未来に推移してしまう可能性すらある」

「……」

「無償の愛を注ぐことが子供を持つ親の義務ではないし、制度や法は必ずしも市民の味方ではない。人が作ったものだから、不備があるのは当たり前なの」

 なにも言えなかった。彼女の表情はやけに切羽詰まっていて、とてもじゃないが、テキトーなことを言える雰囲気ではなかったからだ。

「法は正義によって成り立ってる。だけど、時代や状況で変わるあやふやなものに、正義があるなんて思えないわ」

「おい、なに言ってるんだ?」

「たとえば緊急避難とよばれるものがある。自分の命の危機があるとき、物や他人を傷つけても仕方ないとする刑法よ。引き合いにカルネアデスの板という話が出されるわ」

 彼女は冷たい瞳のまま言葉を続けた。

「古代ギリシャの哲学者カルネアデスが出した寓話よ。

 一隻の船が難破し、乗組員は全員海へ投げ出された。一人の乗組員は命からがら一枚の舟板にすがり付いたが、別の遭難者がその板を掴もうとしている。板には到底二人分の体重を支えきれるほどの大きさはない、そう判断した男は後から来た人物を突き飛ばした。

 救助後、男は殺人で裁判にかけられたが、緊急避難で罪に問われなかった」

「自分の命が優先だからな」

「でもそこに正義はあるのかしら」

 暖かな日差しのなか、彼女の問いかけは何故だか冷たいものに感じた。

「……脱線したわ。作者が正義についてわからないのに、キャラクターが信念を持てるはず無い、私が言いたいのはそれだけ」

「……あのさ」

 なぜ彼女は泣き出しそうになっているのだろうか。俺にはわからないが、なにか言葉をかけてあげたかった。

 状況は読めない。だけど、きっと誰かの優しい言葉を求めているのだろう。

「そんなに難しく考える必要はないんじゃないかな」

 俺たちはまだ中学三年生だ。哲学者になるには若すぎる。

「世の中が白と黒の二つだけとは思えないけど、自分が思う信念があれば、それが正義ってことで」

「正義の反対語は別の正義、って言うじゃない。葛藤を書きたくないけど、キャラクターが活躍しているとき、他方から見ればそれは蹂躙じゃないかと思ったの」

「全部フィクションの話じゃん。想像にそんな力を持たせても」

「……」

「複雑に考えすぎなんだよ。肩の力を抜けよ。お前が書きたいように書いて、おかしいなところは後で直せばいいじゃないか」

「……」

 返事はなかった。無言になって俺たちは見つめあった。どこか遠くで犬が鳴いた。

「またね」

 しばらくの後、戸部は薄く微笑んで、背中を見せた。


 せっかくの休日。家でゆっくりしようと考えていた俺に、その場を去った彼女を追いかける義理はないし、良い気分を台無しにされて少しばかり腹が立っていた。

 家に帰って、映画でも見よう、と思い立ち、踵を返す。

 あの儚げな笑顔を思い出したところで、気にやむことは無い。

 新緑の季節とはよく言ったものだ。心地の良い風が全身を包み込む。こんなサイコーな天気に、なんで彼女は浮かない顔をしているのだろう。

 大型トラックが狭い道を通り抜けた。震動に心が震える。

「……複雑に考えすぎ、か」

 先ほど偉そうに告げた言葉をなんとなく反芻する。

 もっとシンプルに行動すべき、なのではないだろうか。

 なら、俺は、

「戸部」

 元来た道を早足で引き返し、華奢な背中に声をかけた。


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