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20 アキレスと亀


 祭りの時と違い、河川敷周辺に灯りはない。暗がりからは、外の世界がよく見えた。空は濃い紫に変わり、ゆっくりと夜が訪れている。

 そんな景色を一枚の絵画のように窓枠が切り取っていた。

 夜が深く濃くなっていく。

「足が早いことで有名なアキレスと亀が競争します。ハンデとして亀はアキレスよりも早めにスタートしました。アキレスが進むと、亀もアキレスの半分のスピードで前に進みます。アキレスが進めば亀も進む……。この状態が繰り返される時、アキレスは亀に追い付けるでしょうか?」

 喉を鳴らして少女続けた。

「アキレスは追い付けそうで追い付けない亀を延々と追い続ける。前に進んでいるのに、ちっとも動いちゃいない」

 肩を落として、また無言になった。高架橋を通る電車が警笛を上げて走っていった。

「まるで今の私みたい」

「なんでそう思うんだ?」

「私はここにいるのに、どこにもいないの。前に進んでいるように見えて、その実一歩も歩けていない」

「どこにも……?」

 意を決したように、どこが願いを込めるような声音で少女は言葉を吐き出した。

「思考実験じゃないわ。私の存在は透明人間のようなものなの。生まれたときからそう、存在証明書は何処にも存在していない」

「……」

「……青村くん、あのね」

 戸部の瞳から色が消える。飛行機が轟音で辺りの音を根こそぎかっさらっていった。真っ暗闇に静寂が落ちる。

 飛行機が去り、静かになってから、彼女は言った。


「私、戸籍がないの」


 頭が真っ白になる。

 戸籍?

 想定外の言葉に思考が追い付かない。

 彼女の言葉が脳に染み渡るまで時間がかかった。

 戸籍がない、って、そんなの、あり得るのか?


 突風が窓ガラスをカタカタと鳴らした。

 見た目から推察するに、彼女は生粋の日本人だ。黒い髪に黒い瞳をしている。不法滞在者の子供とも考えづらい。

 ぐるぐると考えを巡らす俺に、少しだけおかしそうに笑みを浮かべると、少女は子供に教えるような優しい口調で続けた。

「戸籍は出生届を提出すれば取得できるわ」

「出してないのか?」

「……母は私が生まれる前に離婚して、私が生まれてから、再婚した。出生届を出そうとした段階で、私の父親が戸籍上は別れた夫になることを知ったのよ」

「え、なんで?」

「血縁上再婚相手の子供でも、離婚後三百日は前夫の子供にされる。民法でそう定められているの。いわゆる離婚三百日問題というやつよ」

「それが、戸籍がないのとどう繋がるんだよ」

「つまり私の戸籍を登録するには、前の夫の認知がいるのよ。母はそれを拒絶し、私の戸籍は登録されないまま、十五年経った」

 室内はすっかり真っ暗だ。彼女の輪郭がぼんやりと暗闇に滲んで見える。

「初婚相手はお酒を飲むと暴力が振るい、それが原因で別れたと聞いている。二度と会いたくないと、母はよく言っていた」

「……」

「駆け落ち同然で再婚したのがお父さん。制度に対して無知の母と違い、父はツテを使って私を学校に通わせてくれた」

 はじめて戸部の家を訪れた時、父親はいないと言っていた彼女の言葉を思い出す。

 なにも言えないでいる俺を見て、彼女は察したように続けた。

「そんな父も二年前に他界した。母はシングルマザーとして、私を育ててくれたけど、いつか言われた言葉がずっと胸に残っているわ」

 徐々に涙声になっていく。

「アタシがアンタを育てるのは、アタシにアンタを殺す勇気がないから」

 背筋が凍った。

 間違いなく実の子供に投げ掛ける言葉ではない。

「母はね、私を恨んでるの。真っ当な人生を歩むはずだったのに、私を宿したせいで全部が狂ったと、そう言ってくるのよ。その実、それは間違いではないと思うわ。母が私を身ごもったのは十七歳の時だもの」

「そんな……」

「妻よりも娘に愛情を注ぐようになったと、母はよく言っていた。晩年、二人の間に愛は無く、私の存在は嘘の塊のようなものに変わった」

 かける言葉見つからなかった。

 どんな温かい言葉を投げ掛けたって、彼女には嫌味にしか聞こえないだろう。

 俺の言葉は薄っぺらい。

「普通に生活している分には戸籍なんて気にならないでしょ? でもね、人生の節目には必ず必要になってくるの」

 彼女は……。

 彼女は高校への進路を決めかねている。

 夢がないからとか、そういう理由だと思っていたが、

「進学、できないのか?」

「制度的には戸籍がなくても高校には通える。だけど、どのみち親の協力があればこそよ。小中の義務教育と違って、高校に教育の義務は発生しない。私は働きに出るしかないの」

 自嘲ぎみに少女は続けた。

「まともな職業につくのは難しいでしょうね。履歴書だけで受かるバイトと違って、正社員にはきっとなれない。小説家とか自営業者になれればサイコーなんだけどね。あとは、色々と誤魔化しがきく……女の武器をつかうくらいかしら」

「止めろよ」

「私だってしたくないわよ。だけど、生きていくためには、それくらいの覚悟がいるのよ」

 だから、彼女は死のうとしたのか。

 未来を悲観して、人生を絶望して。

「ねぇ、これがあなたが知りたがった私の薄っぺらい秘密よ」

 俺は、いや、大多数の人間は彼女よりもずっと恵まれた立場にいる。

「なんとかならないのか?」

「もう諦めたわ。開き直ったら、逆に清々しい気分になってきたの」

「嘘つくなよ」

「なんでよ……嘘じゃないわ」

「だったらなんで泣いてるんだよ!」

 室内には影しかない。真っ暗だ。

 彼女の声はいつもの調子でハキハキとしていた。

 だけど、俺には分かるのだ。彼女の言葉をずっと、聞いてきた俺には、彼女が無理して笑っていることを。

「……なんで」

「戸部が辛いことくらい俺にはわかる。だから嘘をつかないでくれ」

 喉に言葉が詰まったが、続きを言わないわけにはいかなかった。

「だから、死ぬなんて言わないでくれ」

 この廃ビルを見つけたのは、きっと偶然なんかじゃない。彼女は明確な目的を持って、ここにたどり着いたのだ。

 退屈ではなく、未来に絶望して。

「俺が出来ることが多くないのはわかってる。だけど、いつか絶対お前を救うから、救ってみせるから、それまで一緒に、一緒にいよう」

「……なにそれ。頭おかしいんじゃない」

 少女の吐き出した辛辣な言葉には笑みが混じっていた。

「それじゃあ、まるでプロポーズみたいじゃない」

「……」

 今更ながら発言に気付いて心臓が早鐘になった。

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