21 五億年ボタン
廃ビル内に音はなく、世界中に二人きりみたいな錯覚にとらわれる。もし、そうだとしたら、なにも気にせず彼女は幸せに生きることが出来るのだろうか。
くすくすと無理して笑うように戸部は肩を揺らした。
「私ね、夏休みが明けたら死のうと思ってたの」
すでに九月に入って四日経っている。
「知ってる? 子供の自殺率が一番高いのって九月一日なの。二学期を迎えるのが憂鬱でみんな死を選ぶのよ」
「嫌な話だな」
「学校が嫌いなわけじゃないけど、誰かに理由を詮索されるくらいなら、いっそのこと大多数に埋もれてしまう方がマシだと考えていた」
生暖かい風が室内には吹き込んだ。窓がサッシと擦れてカタカタと音をたてた。
「でも、死ねなかった」
重く沈んだ空気が晴れていく。
「怖いんじゃないの。いざと思うと、なんでか楽しかったことばかり思い出して。あんな母親でも良いところはあったし、学校には多くの友達もいるし。それに」
「それに?」
「それに、なんでか青村くんのこともよく思い出した。酷く傷つけてしまったこと、一緒に頭を悩ませたこと、笑いあったこと……。ほんとはね、キミに罪悪感を植え付けるために近づいたの。逆恨みよ。だけど、あなたといて、ここ数ヶ月、楽しかった」
それはただ純粋な言葉に思えた。俺と同じ気持ちだと伝えると、ぐっ、と息を飲む音がして、彼女は続けた。
「ごめんなさい」
「謝ることなんて一つもない」
無神経だった。
人にはそれぞれ立場があることを、俺は知らなかったのだ。
「身勝手ってわかってる。だけど、お願い。また、私と色んな話をして」
すがるような願いに対する返事は決まっていた。
二人で廃ビルから外に出る。
星が明るい夜だった。月は叢雲に隠され、ぼんやりと光を滲ませている。川風がせせらぎを伴って夏草の優しく揺すっていた。
「あーあ、お金持ちになれたらこんな思いしなくて済むのに」
なんか色々と末期な事を呟いて、少女はいたずらっ子めいた瞳で俺を見た。
「お金持ちになったら南の島に行ってのんびり暮らすの。潮騒を聞きながらフルーツジュース飲んで、日がな一日空を眺めて」
「そう簡単にはお金持ちになれないよ」
「青村くんは五億年ボタンがあったら押す?」
「五億年ボタン?」
「知らないの? 最近ネットで生まれた思考実験らしいわ」
押した瞬間から、なにもない空間に飛ばされ、そこで五億年過ごさなければならなくなる。その代わりに百万円が手にはいり、五億年間の記憶は削除される。
つまり、感覚的にはボタンを押したら百万円がポンとでて来るようなものなのだ。
「過程より結果を重んじるタイプはボタンを押す選択肢を取るらしいわ。青村くんは押す?」
「押すわけないだろ」
「なんで? 記憶は削除されるから苦しみなんて存在しないのよ」
「押したら絶対後悔するだろ。五億年だぞ? 発狂するわ」
「後悔したという記憶が無くなるのだから、百万円を手にいれる喜びしか残らないわよ」
「戸部は押すのかよ」
「押さない。怖いもん」
「お前……」
熱帯夜は落ち着き、少し肌寒い初夏の夜風が河川敷を通り抜ける。
「それにね、キミと話して、過程も大事、って思うようになったし、自分自身の経験を忘れてなかったことにはしたくないの」
「恥ずかしいことを当然のように言うやつだな」
「なんだか今日はそういう気分なの」
にこにこと笑い、おどけるように彼女は手を広げその場で一回転した。
「でもさ、五億年もあったら、猿もシェイスクピアの戯曲を書き上げると思わない?」
「どういう意味だ?」
「もし無限の時間があったら、タイプライターの前でテキトーにキーを叩く猿も、ほとんど確実に一本の戯曲を書き上げることになる」
「無理だろ」
「無限ってそれほどスゴいってことよ。私だって蟹チャーハン先生の傑作を越える傑作を書き上げる可能性が存分にあるのよ。人間には想像つかない五億年という時間は擬似的に永遠を思わせるしね」
話に夢中になっていたら、少女は赤信号にも関わらず、道路に飛び出そうとしていた。慌てて手をつかみ、引き寄せる。
「あ、ありがと」
手と手が触れあい、いつの間にか手を繋いでいた。お互い離すタイミングを逃し、結局ずっとそのままだった。車通りなんてほとんどないので、必要もないのに。心臓バクバクだった。
五億年ボタンの百万円で思い出したが、彼女の作品が小説大賞の一次選考を突破した事を伝えると晴れやかな笑顔で俺にお礼を告げた。
次の選考の発表日は十一月の上旬で、そこを通りさえすれば、最終選考だ。
「気合いをいれるしかないわね」
と少女は鼻息を荒くしたが、もう投稿し終わっているのだから、やることはない。祈るだけである。
そんなに上手い話はないだろうが、夢を見るのはタダだ。
少女を家まで送り届け、俺も自宅に帰った。
ご飯を食べてお風呂に入り、心地のよい気持ちのまま床につくことができた。一ヶ月間のモヤモヤが無くなったのだから、睡眠の質は最高だった。
次の日から、戸部は普通に登校するようになった。
クラスメートは優等生の帰還を喜び、口々に欠席の理由を尋ねたが、少女は素知らぬ顔で「ちょっと体調くずしてて」と嘯くだけだった。
戸部が登校するようになって、俺も嬉しかったが、これといって現状に変化は無かった。人気者と日陰者の運命が重なることはなく、一緒に手を繋いだ思い出が、今更ながら気恥ずかしくて、むしろ避けるようになっていた。
十月に入り、季節が初秋に変わる頃、学校で文化祭の準備が行われた。受験競争が過熱していく時期によくやるな、と毎年思う。
うちのクラスはフリーマーケットを行うことになった。各自家からいらない、もとい、売りに出すものを持ち寄って販売するのだ。特にいらないものは無かったので、河原で拾った綺麗な石を出品したら、クラスメートから顰蹙を買った。
戸部は何を出すのだろうと思ったら、ブランドもののバッグだった。およそ中学生が出すようなモノではない。
文化祭の前日、教室内の飾りつけを放課後遅くまで残って行うことになっていた。
クラス全体が非日常に高揚している。
しれっと帰宅したかったが、空気に流され、俺はただひたすらにお花紙を丸め続けた。
「青村ぁ、ちょっと」
「ん?」
要領を覚え作業スピードが上がり、気分が乗ってきたところで、クラスの女子に廊下に呼ばれた。
三年になってすぐの頃、隣の席だったことがある女子だ。教科書を忘れたときは助け合ったりしたが、これといって踏み込んだ会話はしなかったはずなのに、今さらなんの用だろう。
「フリマで売る駄菓子を買ってきて」
フリーマーケットの意味を知ってるのか、と思ったが突っ込むのも野暮だと判断し、了承すると「小梅にも頼んだから,仲良くね!」とニタニタと笑われた。
いらんお節介で久々に戸部と並んで買い出しに行く。
気まずいことこの上なかった。
「奈留枝ったら、勘違いしてるのよ。私と青村くんが付き合ってるって思ってるの。否定してるのに、手を繋いで歩いてるとこ見たって聞かないんだから」
駄菓子屋への道中、戸部は近況について教えてくれた。
母親に進学したいと伝えたこと。金銭的事情で拒否されたこと。奨学金制度をつかい、迷惑をかけないと必死で訴えていること。戸籍を取得したいと伝えたこと。
どれも良い返事はもらえていないらしい。
「あの人、物臭だから……」
戸部は力なく微笑んだ。
「戸籍がないとさ、やっぱり大変なのか?」
「大変なんてもんじゃないわ。パスポートが取れない、口座が作れない、免許が取れない、就職できない、……結婚もできない」
「結婚……したいのか、戸部も?」
「そりゃ私も女の子だもん。お嫁さんが将来の夢よ」
「ふぅん」
色とりどりの葉が西日を薄く遮っていた。自然が蒸せるような香りを放っている。風にさらわれた落ち葉がアスファルトと擦れてカサカサと音をたてている。肌寒い初秋の気温に体温が奪われぬようポケットに手を突っ込んで、できるだけ素っ気なくなるように返事をする。
業務用スーパーで買い物をし、学校名で領収書を切る。普通の買い物なのに、少しだけ大人になった気がした。
帰りの道中も何でもない話をした。
進路や将来の話は意図的に避けるような、受験生の会話だった。




