8
深い微睡み。春眠暁を覚えずとは良くいったものだ。今の季節は晩秋だが。
無意識のうちにカミラは枕を抱き寄せる。まだ小さい頃から使っている枕で、カバーはもともとどんな色だったのかも分からない。ただ、カミラの実家の匂いと、昔飼っていた犬の匂いが染み付いていた。
布団の温もり。毛布の重み。至福のひとときである。例え意識がなくても、カミラはいつものポーカーフェイスが崩れてだらしないほど頬が緩んでいた。まさに楽園。何人にも犯すことのできない聖域である。
その聖域に、神をも恐れぬ蛮勇が一人。
「おっはよーう‼︎」
勢いよくカーテンが引かれ、眩しさにカミラの顔が思い切り歪む。そして条件反射のように布団に潜り込み、布団から出ない意思をアピールする。
「無駄だよーん、カミラちゃーん? 出ておいでー?」
カミラは布団から少しだけ顔を出す。ユリアナの視線を避けるように、弱々しくかぶりを振って見せた。寝ぼけまなこのままで。
「あたしの事は捨て置け……。お前の道を歩むのだ、ユリアナ」
「そ、そんな……。私、カミラがいないと……私一人じゃ、生きていけない!」
ユリアナは途端に瞳を潤ませる。顔を青ざめさせ、カミラの手をひしと握り締める様は、まこと見事な演技である。まさに迫真。そして無駄にノリが良い。
そんなユリアナを精一杯元気づかせる様に、カミラは慈愛にみちた瞳で微笑んだ。
「そんな事ないさ。あんたは伝説の勇者ではないか。あたしの分も、生きて、くれ……」
「カミラ……カミラ、カミラぁっ!
……起きなさい」
全く身も蓋もない御仁である。でも、いつもよりは清々しい目覚めであった。ユリアナよ、大儀であった。褒めてつかわす。
ユリアナはもう着替えていた。いつも通りである。ちなみに三日前と全く同じである。これもまた、いつも通り。
ただ、昨日はなかった、ユリアナのおでこのニキビが気になる。ユリアナは夜更かしをすると、途端に肌の調子が悪くなるのだ。昨日も夜更かししていたから、多分そのせいだろう。
掛け布団をはねのけて、ベッドから出る。ぬくい布団から出た素足が、秋の冷気にあてられてヒヤリとした。
ユリアナは図書館で借りた本を読んでいる。彼女の足下には水色のダストボックスが置いてあり、文字が読めないほど細く割かれた、ノートの切れ端が小さな山を作っていた。
カミラは今日もゆっくりと服を選ぶ。そんな彼女を、ユリアナは訝しむそぶりもない。実際、気にも留めていないのだろう。『経済活動とアイドルたちの行方』などという、どこが面白いのかカミラには理解不能な本に夢中で。
ようやくカミラが着替え終わると、ユリアナは本を置いた。次いで、つと目を細める。猫目の彼女がそうすると、まるで自分が猫に狙われているネズミのような気持ちになる。
「……うん。じゃあ、食堂に行くか」
何に納得したのか、はたまた不安でもあるのか。
さてはアイドルたちの行方について、何か分かったことでもあるのか。
✳︎
カミラが少々着替えに手間取ったせいで、食堂は少々混み始めていた。
ユリアナはさして気にする様子もなく、オバちゃんに元気良く挨拶すると、またたくさん注文し始めた。
「あれ、ユリアナ。今日は新聞読まないのかい?」
「カミラの着替えが遅かったせいでー」
そういえば、ユリアナの愛読している『西エリア総合新聞』が、彼女の小脇にない。食堂のオバちゃんは目ざとい。
「ユリアナ、あんたニキビできた? 夜更かしもほどほどにしなさいよ」
本当に、目ざとい。
ユリアナは何気無く、ひとけの少ないテーブルを選んでいた。蛍光灯が切れているのだろうか、何と無く薄暗い。
頼んだ朝食が来るまで、ユリアナは何も喋ろうとはしなかった。カミラもあえて話しかけようとはしなかった。朝の喧騒のなか、カミラとユリアナの周りだけが異様に陰気だ。
「あら、なんなの? 葬式みたいな顔しちゃって」
「葬式に顔はありませんよぉ、ハンナさん」
このひとはニキビもなく、昨日のまま美しい。一番美しい年齢のまま、時が止まってしまったのではなかろうか。
「言葉のアヤよ。細かいオンナは嫌われるわよ、ユリアナ」
「私はハンナさんを愛してるー」
「それはどーも」
女王の風格を漂わせた、食堂のオバちゃんルックのハンナさんは颯爽と去って行った。歩く姿さえ美しい。
「ユリアナ」
彼女は静かにカミラを見据えた。
もう誰もあたしたちに注意を払わない。もう誰もあたしたちの声が聞かれることはない。
何か話したいことがあるんでしょう?
だから今日、いつもよりも遅めに起こしたのでしょう?
「さすがカミラ」
噛み付いてきたネズミに感嘆するように、ユリアナは目を細めた。