第2話 学級会は断罪の縮小版
国語の小テストは、黒川ひよりの記憶どおりに面倒だった。
漢字の読み取り。慣用句。作者の気持ち。……作者に聞け。
私は鉛筆を走らせながら、つい口に出していた。
「作者の気持ち、本人が一番分かってないことあるけど」
隣の咲が、肩を小刻みに震わせた。笑いをこらえている。
佐伯先生が「静かに!」と声を張る。教室の空気が一瞬だけ締まって、またゆるむ。こういう雑な波が、妙に安心する。誰も刃を落とさない。誰も名前を叫んで石を投げない。……平和だ。
小テストが回収され、授業と授業の間のざわつきが戻ってきたころ。
事件は起きた。
*
「……無いんだけど」
花梨の声が教室の中心に立った。
声が大きい子の「無い」は、ただの報告じゃない。周囲を巻き込む合図だ。私が机に頬杖をついたまま観察していると、案の定、空気が吸い寄せられていく。
「スマホのイヤホン、さっきまでここにあったのに」
花梨が机の上の教科書をずらし、ペンケースを持ち上げ、鞄の口をぐいっと広げる。探し方が大げさだ。その大げささが“事件感”を作る。
「誰か持ってった?」
この一言で、言葉の意味が変わる。
“落とした”じゃない。 “どこかに置いた”でもない。
“持ってった”。
犯人が必要な言葉。
周囲がざわつく。
「え、盗まれた?」
「やば」
「誰?」
そして、次の工程。視線の収束。人は“誰か”を探すとき、自然に“弱いところ”に目を向ける。
窓際の後ろ。黒縁メガネの直人。大人しい。声が小さい。反論が遅い。空気に飲まれやすいタイプ。
花梨が眉を吊り上げた。
「直人くん、さっきここにいたよね」
直人がびくっとした。
「……いたけど、俺、何も……」
「でもさ、花梨の席の近くにいたのって直人くんだけじゃん」
誰かが言う。“みんな”の最初の一人が生まれる瞬間だ。
咲が小さく私の袖を引いた。
「ひより、やめときなよ。面倒になる」
面倒は、もう始まっている。
私は椅子から立った。立っただけで、教室の視線が一瞬こちらに流れる。鼻血のやつ。先生に噛みついたやつ。変な言葉使うやつ。……つまり、空気を止められるかもしれないやつ。
花梨が直人を見下ろす。
「ねえ、取った?」
「取ってない」
「じゃあ証明してよ」
来た。無実の証明を要求する、断罪の基本動作。
私はそこで、わざと間を置かずに口を挟んだ。
「花梨、ひとつ聞く」
「なに、黒川」
花梨の目が警戒に変わる。いい。警戒は思考を呼ぶ。
「イヤホン、何色」
「白」
「ケースは?」
「透明」
「“さっきまでそこにあった”って、誰が確認できる?」
「……私が見た」
「それ、他人が確認できる情報じゃないよね」
花梨が一瞬、言葉に詰まった。周囲が「なんでそんなこと聞くの?」という空気を作ろうとする。空気で殴る前段階の、薄い笑い。
私はその薄い笑いを、正面から踏み潰した。
「いま確定してるのは、“イヤホンが見当たらない”だけ。直人が取った証拠はゼロ」
直人が息を飲んだ。救われた、というより、やっと地面が見えた顔だ。
私は続ける。
「で、花梨が疑ってる根拠は“直人が近くにいた”。それだけ?」
「だって他に誰が……」
「他に誰が、って言い方は便利。証拠出さなくていいから」
教室のざわつきが一拍止まる。刺さった瞬間の静けさ。
私は指を一本立てた。
「一個。『近くにいた=盗んだ』は成立しない」
二本。
「二個。『探してたっぽい』は証拠じゃない。ただの感想」
三本。
「三個。順序が逆。先に探す。次に最後に触ったのを確認。最後に“持ち出せた条件”を絞る。疑うのはその後」
花梨が口を開けたまま止まる。周囲が「言い返せない」と悟った顔になる。
私は、その瞬間を逃さず、軽く煽った。
「なに? これくらいの正論で殴られたくらいで、もう黙るの?」
花梨の眉が跳ね上がる。
「……っ、ムカつく」
「ムカつくのは反論じゃないよ」
私は肩をすくめた。わざと、少しだけ口角を上げる。
「ざぁこ。ざぁこざぁこ」
咲が後ろで小さく「やった……」と頭を抱えた。直人が固まる。教室が凍る。
凍った空気は、熱狂より安全だ。熱狂は誰かを殺す。凍結は、ひとまず止まる。
そのとき、がらっと後ろの扉が開いた。
「何してる」
佐伯先生の声。
先生が入ってくると、教室の空気が一斉に“権威に丸投げ”へ向かう。これも縮小版の断罪。誰も責任を取らず、判断を上に投げる。
花梨がすぐ訴える。
「先生! 花梨のイヤホンが無くなって、直人くんが怪しいって……」
「俺じゃない!」
直人が声を上げた。珍しい。追い詰められると、人はやっと声を出せる。
佐伯先生が眉間に皺を寄せる。
「勝手に犯人探しするな。花梨、まず落ち着け。直人も落ち着け」
中立っぽい言葉。でも私は知っている。ここで大人がやりがちなのは、“面倒を早く畳む”だ。弱い側に我慢を押し付けて終わらせる。
私は先に釘を刺した。
「先生、いまから『どっちも悪い』で済ませたら順序逆だからね」
佐伯先生の目が私に向く。
「黒川……またお前か」
「また私」
「話はあとだ。とにかく、まず探せ。全員、机、鞄、ロッカー、床。教室の隅まで」
やっと順序が整った。私は少しだけ満足して、椅子に戻ろうとした。
その瞬間。
「……あった」
後ろの方から声が上がった。
男子が、掃除用具棚の上を指差す。透明ケースが、ちょこんと置かれている。
花梨のイヤホン。
教室の空気が固まり、次の瞬間には「何事もなかった」に変わろうとした。
「え、よかったじゃん! あったー!」
花梨が全力で流す。逃げる。責任を捨てる。いつもの。
直人が震える声で言った。
「……俺、疑われたんだけど」
花梨は目を逸らしたまま、早口で言う。
「疑ったわけじゃないし……怪しいって言っただけだし……」
言っただけ。前世でも聞いた。言葉の暴力は、言う側の中でいつも軽い。
私は椅子から立ち上がった。今度は煽らない。煽ると相手に「感情の喧嘩」に逃げ道を与える。ここは締める。
「花梨」
「……なに」
「怪しいって言った時点で、疑ってる。で、直人を一人で背負わせた」
花梨の口がもごもご動く。
「でも、だって、無くなったし……」
「無くなったのは事実。でも直人が取ったのは事実じゃない」
私は教室全体に聞こえる声で言った。
「みんなも。『近くにいた』ってだけで空気作ったよね。あれ、普通に怖い」
気まずい笑いが起きかけた。笑って済ませたい空気。私は笑わせない。
佐伯先生が咳払いをして「まあ、見つかったなら……」と言いかける。
私は先生の方を見て、短く言った。
「先生、ここで『もういいだろ』で終わると、また同じこと起きる」
佐伯先生が眉をひそめる。
「じゃあどうする」
私は一拍だけ息を整えた。
背筋を伸ばす。視線を落ち着かせる。声の芯を変える。ほんの少しだけ、処刑台の上の自分を呼び戻す。
「次から、順序を守ってください」
教室が静まる。
「まず探す。次に確認する。最後に疑う。証拠が出てから裁く。空気で裁かない」
私は花梨へ視線を戻す。
「花梨。謝るなら、ちゃんと謝る。『疑ったわけじゃない』じゃなくて、『疑った』って言う。言葉の責任」
花梨の目が揺れて、やっと口が動いた。
「……ごめん。直人くん。疑った」
直人が小さく息を吐いた。許すかどうかは直人の自由だ。私はそこまで踏み込まない。踏み込みすぎると、私が正義ごっこを始める。
佐伯先生が腕を組んで言った。
「……よし。これで終わりだ。昼休み。次からは勝手に騒ぐな」
先生の締めは雑だ。だが今日はこれでいい。順序を一つ学んだなら、十分進歩。
私は席に戻った。
その途中で、花梨の友達の一人が小声で言うのが聞こえた。
「黒川さ……なんかあれじゃない? 前世とか言い出しそうなやつ」
「分かる。昨日も先生に変な言い方してたし」
別の子が笑いをこらえる。
「絶対厨二」
咲が私の横で小さく目を閉じた。やめろ、という合図。だが、もう遅い。空気は新しいラベルを見つけた。反論できない内容を、キャラで処理するためのラベル。
私は弁当を出しながら、あえて普通に言った。
「うん」
咲が箸を止める。
「……うん?」
「厨二でいいよ。便利だし」
咲が「は?」という顔をする。私は続ける。
「反論できないときに、“厨二”って言えば逃げられるもんね。みんな楽」
咲が小さく息を呑んだ。刺さるところは刺さる。
そこへ花梨が、弁当を持ったまま近づいてきた。さっきの件で気まずいのか、気まずさを強がりで塗るのか、どっちかの顔。
「黒川ってさ、ほんとウザいよね。何その言い方。『順序』とかさ」
周囲が聞き耳を立てる。昼休みの第二ラウンドだ。空気はまだ飢えている。
私は弁当の蓋を開けたまま、顔を上げた。
「順序は大事だよ。前世基準で言うと、順序が死ぬほど大事」
花梨が鼻で笑った。
「出た。前世設定。ガチ厨二じゃん」
教室のあちこちで、くすっと笑いが漏れた。ラベルで処理して、安心したい笑い。
私は、その笑いを一回だけ許した。許した上で、次を刺す。
「うん。アルヴェイン公爵家長女、エレオノーラ・アルヴェイン。今日だけね」
言い切った瞬間、笑いが大きくなる。咲が額に手を当てた。直人が、少しだけ笑った。直人が笑えるのはいい。
花梨は勝った気になった顔で言う。
「ほらほら、やっぱり厨二」
私は箸を置いて、花梨の目を見た。
「厨二でいいよ。でさ」
花梨の眉が動く。
「さっきの『疑ったわけじゃない』って言い訳、次からやめな。ダサい」
「……は?」
「言ったでしょ。言葉の責任。疑ったなら疑った。怖かったなら怖かった。自分の言葉から逃げるの、ざぁこ」
教室の空気がまた静まった。
花梨が口を開いた。閉じた。反論が出ない。出ないから、別方向に逃げようとする。
「……意味分かんない。てか、ほんとムカつく」
「ムカつくのは自由。言い返せないのも自由。でも直人を巻き込むのは自由じゃない」
咲が横で、ゆっくり弁当を口に運びながら呟いた。
「ひより、厨二って便利だね」
「でしょ」
「……怖いわ、その使い方」
私は肩をすくめた。
「だってさ。みんなが『厨二』って笑ってる間、内容は誰も否定してない。否定できないんだもん」
咲が箸を止める。
「……たしかに」
私は弁当の唐揚げを一口かじった。うまい。うまいってだけで幸福だ。断罪台では唐揚げなんて出ない。
花梨は舌打ちして去っていった。周囲も、話題を別に移す。空気は飽きやすい。だから安全でもある。
直人が、弁当を食べながら小さく言った。
「……ありがとう」
私は直人を見て、軽く笑った。
「感謝はいいけど、次から声出しな。空気に潰されるの、もったいない」
直人が頷いた。咲が横で小声で囁く。
「それ、直人に言う言い方じゃない」
「優しく言ったつもり」
「どこが」
私は箸を振って言った。
「だって私、厨二だから」
咲が吹き出した。直人も笑った。教室が少しだけ柔らかくなる。
私はその柔らかさの中で、胸の奥を一度だけ確かめた。
エレオノーラ・アルヴェイン。アルヴェイン公爵家長女。
その名は、この世界では“厨二の設定”として笑われる。笑われて構わない。笑われることで、私が動きやすくなるなら、むしろ都合がいい。
空気で裁く行為を止められるなら、どんな仮面でも使う。
私は弁当を食べ終えて、咲に言った。
「購買行く?」
「行く。……ひより、また石踏むなよ」
「踏まない。次は石に謝らせる」
「だから意味分かんないって」
咲が笑い、私も笑った。
断罪の縮小版は、今日も教室に転がっている。
でも、首は落ちない。
せいぜい、鼻血で済む。




