第一章 帰郷、旅立ち(6)
「……ところで、マナ。私に何か話があるのでしょ?」
やはり師母は、自分の懊悩に気づいていた。
言い出さなくてはならないことがある。
だが、できることなら言いたくなかった。
それは、誰よりも慕う師母、そして愛おしい妹弟子との別離を選ぶ道だったからだ。
「……私は、また帝都に戻らなければなりません」
「ええっ!?」
ココが目を丸くし、大声を上げた。
その澄み切った瞳の端から、大粒の涙が零れ落ちる。
良くも悪くも、ココはいつでも感情表現が激しく豊かなのだ。
「……そうね」
師母は、動揺するココの肩を優しく抱き寄せ、何もかも理解っているという表情でマナを見つめている。その声は落ち着いていた。
「何で!? 嫌だ、師姉様とずっとずっと一緒にいるぅ!」
駄々っ子のように泣き喚くココの頭を撫で、人差し指で愛弟子の唇にそっと触れた。
「ココ。マナの話をちゃんと聞きなさい」
その言葉に、ココはうつむいて唇を噛み締めながらも大きくうなずいた。
「ココ。本当にごめんなさい。私は……私は、帝都で近衛騎士団予科の入団試験を受けようとしているの」
マナは一言ずつ、高ぶる気持ちを抑えながら言葉を続けた。
意識していないと、涙で次の言葉が出てこなくなりそうだった。
「騎士となって、失ってしまった名誉を取り戻すのは私の……祖父以来の悲願。皇族の方々にお仕えし、国のため、民のために尽くすのが私の望み。だから…だから……」
ついに堪えきれず、マナは嗚咽を洩らしてしまった。
ココを腕に抱えたまま、師母がすっと近づいてきて、マナとココの二人を包み込むように、ぎゅっと胸に抱いた。
その温もりの中で、マナは号泣した。
「泣くことはないわ、マナ。そのために貴女は頑張って勉強してあの学園に入学したんじゃないの。学園でも努力し続けてきたことは、今の貴女を見ればよく分かるわ」
「師母様……。私、私は……師母様を……」
いかに慕い、尊敬しているのか。やっと再会できた喜びがどれほどのものか。
その下を再び離れなければならないことが、どれだけ悲しく辛いことなのか。
伝えたいことは山ほどあったのに、言葉が続かない。
ただ滂沱と流れる涙だけが、雄弁に彼女の心を物語っていた。
「うん、うん……。貴女の気持ちは解っているわ、マナ。だけど、いずれは誰もが一人で生きる道を選択しなくてはならない。それも貴女は理解しているでしょ?」
マナはただ、うなずいて答えるのみだ。
「私は嬉しいわよ、マナ。貴女が一人の女性として、人として立派に育ってくれたこと。何より、志を抱き、理想を実現しようと前に進む姿を誇りに思うわ」
マナはゆっくりと面を上げた。
慈愛に満ちた師母の微笑に、ふんわりと包まれるような幸福を感じた。
帝国近衛騎士団は、その名の通り皇帝及び皇族に侍り、警護することを任としている。
当然ながら武勇に優れ、さらに忠誠無比な者が任官される。
また、その任務を全うするためには緊急時における判断力、いかなる苦境にも折れない忍耐力、自らを犠牲にできる精神、宮中における秘密を何があろうとも口外しないという信義などが必須とされていた。
マナが試験を受けようとしているのは、予科、つまり見習い的な立場にある部隊だ。
予科に入ることができれば、宮中近くの訓練場で厳しい訓練を受け、適正があると見なされれば正式に近衛騎士団の一員となる。
「……それで、さらに予科試験の前に、指定されている学校で三ヶ月間の修練を受けなくてはならないのです」
温泉から山小屋に帰り、先程からずっと泣きじゃくっていたココが落ち着いたところで、マナは近衛騎士団に至るまでの過程を説明していた。
熱い白湯を飲んでいる内に、徐々に高ぶりは収まってきている。
「へえ、やっぱり何だかんだと面倒なんだね。まあ、貴女には適任だと思うけど」
何より堅苦しいことを厭う師母がうんざりとした表情を浮かべ、マナは苦笑した。
「仕方ありません。何しろ、陛下や皇族の皆様に侍るお役目ですから。もちろん、その学校もしかるべき立場の方からのご推薦が無ければ入ることは叶いません」
卒業の前に、生徒たちは自らの進路を担当の講師に相談する。
マナが意志を伝えると、学園長からの推薦状を受け取ることができた。
彼女のように近衛騎士団予科を受ける生徒は、毎年必ず数人はいるという。
「予科の試験は八月の末に行われます。試験の結果発表と手続きがあって、十月の収穫祭に正式な予科入隊式が行われるのです」
「ああ、何か見たことがあるような気がするわ」
その試験までの三ヶ月間、五月中旬から八月中旬まで学校で修練を受けることになる。
学校の講師たちは授業を行いつつ、マナたちが予科に相応しい人物か否かの判断も行う。
適性なし、という結論を下されてしまったら、試験を受けることすらできない。
近衛騎士団は、騎士の誰もが憧れる地位であるがゆえに、そこに至るまでの過程も非常に厳しいのだった。
しかしマナはそれに臆することなく、果敢に挑もうとしている。
彼女の家系は、曽祖父・祖父の代には皇帝陛下に仕えていた。
東方諸島系の一族で、それ以前は一介の戦士として傭兵や鏢師(用心棒)として剣を振るっていたが、折しも大陸各地で叛乱の嵐が巻き起こっていた時代、曽祖父は傭兵隊長として挙げた数々の勲功により騎士叙勲を受けることができたのだ。
「だからな、マナ。お前も本当なら騎士様の家のご令嬢ってわけだったんだがよぅ……」
亡き父は、まだ幼かった頃のマナに何度もそんなことを言っていた。
詳しい理由を父は語らなかったが、祖父は晩年に失脚し、騎士の資格を失った。
家名を復興させ、再び皇帝陛下の騎士となることは父の悲願だった。
「まあまあ、色々大変そうだけど、貴女なら大丈夫よ。だって、私の可愛い弟子だもの」
師母は冗談めかしながら、マナの肩を軽く叩いた。
師母の言葉は、いつでもマナにとっては魔法のように気持ちを和らげ勇気づけてくれる。
「ありがとうございます。それで、あと一ヶ月ほどここで修行に励み、それからまた帝都に戻ろうと思うのです」
「ふむ。それはいいけど、帝都ではどこで寝起きするの?その学校にまた寮があるの?」
師母が少し心配そうな顔をした。
それまでは学園の寮で衣食住、全てが用意されていた。
帝国が運営する学校なので、費用の心配も一切必要ない。
だが、普通に帝都でそれだけの期間を過ごすとなれば、当然ながらそれなりの金がかかることになる。
「いえ、寮はありません。実は、その間は親友の御宅でお世話していただくことになります」
帝国青狼騎士団副長を務めるランス・アディンセル卿。その次女にあたるサーラと、マナは三年間親しくしてきた。
彼女もまた、マナと同じく近衛騎士団の一員となることを望み、同じ学校に通う予定だった。
その話を聞いたランス卿が、マナもしばらくの間居候するといい、と言ってくれたのだ。
「ふうん、さすがにしっかり者だね、マナは」
師母が感心した口調でしきりにうなずく。
(続く)