20.王太子殿下の懸念
建国祭が始まる数日前、思い出し薬を初めて飲んだ日の午後のことである。
レベッカは惚れ薬の調合のために執務室にはいないし、今日はこの部屋に戻ってくることもない。だというのに、ドアの付近で物音がしたような気がして、サイラスはちらりと目を向けてから小さく息を吐いた。それに気づいているはずのユリシーズは無表情のまま、いつものように直立不動である。
「ユリシーズ」
「はい」
「ため息が聞こえていただろう」
「はい」
問いかけにはすぐに答えが返ってくる。だがユリシーズの態度はなんともそっけない。
「何か言わないか」
「俺の職務は護衛です」
四角四面な返答に対してサイラスが盛大に眉間に皺を寄せたところで、ユリシーズはいつもの真顔をふっと緩めた。
「レベッカなら今日は戻ってきませんよ」
「わかっているよ。だから話したいことがある」
前置きをしてから、サイラスはお茶のカップを手に取った。それは先ほどレベッカが下がる前に淹れていってくれていたものだ。すでにサイラスに処方すべき薬は判明しているので、薬草茶を飲む必要はないのだが、彼女はサイラスのためにお茶を淹れてくれるのが日課になっていた。
(懐かしい気がする)
思い出し薬は先ほど飲んだばかりで、記憶が劇的に戻ってきているわけではない。だが、お茶を飲むと確かにこの味が『懐かしい』と感じるのは、ワイズ伯の家で飲んでいたからなのだろう。それも頻繁に。
「ユリシーズ、僕の恋人のことだけれど」
「思い出されましたか」
珍しく食い気味なユリシーズの反応に笑って、サイラスは首を振る。思い出しの魔女の薬が通常通りに効くのであれば、すぐに記憶が戻るところだが、惚れ薬が変に作用しているせいでなかなか複雑らしい。
「ユリシーズ。僕の恋人が誰なのかについて、結局誰にも話していないね?」
「は、ご命令通りに」
「父上と母上にも? 聞いてこられなかった?」
つまりは国王夫婦という意味だ。婚約者を指名すると言っていた手前、気にならないはずがないのだから、ユリシーズが問い詰められていてもおかしくはない。
「陛下は、殿下のお考えに合わせるおつもりのようです」
「そうか。……僕が記憶喪失になって以後、婚約者の件を話題に出されないのは気を遣われているだけなのかと思っていたけれど」
「それもあるでしょう。どんな相手を添わせても、殿下がご納得されないのでしたら意味がありませんからね」
だからこそ、婚約者を選ぶためだけにあんなばかばかしい舞踏会を開いたのだから。
政略で結ばれただけの相手ではきっと、のちのちサイラスが即位し王として重責を担ったとき、共に支えあって歩んでいくのは難しかろう。もちろん、愛情だけで伴侶を選べと言っているわけではない。王妃たるにふさわしい相手であるべきだろう。婚約者選びがサイラスに委ねられているのだって、王太子としての資質も見極めるために必要なことなのだ。
「そうだね……」
「……殿下」
沈んだトーンのサイラスに対し、ユリシーズが気づかわしげな顔になる。だがサイラスは気にする必要はないと首を振って、話を続ける。
「忘れてしまった恋人の件だけれど、もしかしたら、レベッカが僕の恋人だったんじゃないかって思うんだ」
サイラスは言いながらユリシーズの眉がぴくりと動いたのを見て、自嘲気味に笑う。
「殿下、それは」
「なんてね」
ユリシーズが肯定しようとしたのかどうかはわからないが、サイラスはあえてその声を遮る。
「これは願望だよ。……僕は、レベッカのことが好きだから」
「レベッカ殿のことを?」
「うん。ユリシーズと親しげに話しているのを嫉妬するくらいにはね」
「俺はレベッカ殿とはそういう仲ではありませんよ!?」
酷く慌てた様子のユリシーズがさらなる言葉を連ねる前に、サイラスは手をあげて黙らせる。
「わかってるよ、ワイズ伯のところに一緒によく行ってるんだ。お前も接することが多かっただろう」
頭でわかっていても、名前を呼び捨てされるユリシーズのことを歯がゆく思ってしまうのは仕方ない。
(いつのまに好きになってたのか、なんて愚問だな)
サイラスはレベッカの姿を思い浮かべてほんのりと口元を笑ませる。
(レベッカはいつも人の気持ちを優先してて……)
なんだかいつももの言いたげなのに、我慢していつもサイラスの都合を優先する。それはサイラスが王太子だからではなく、レベッカがいつでも人のことばかり優先して動いているからだ。怪我をしたときだって、他人のほうをかばってしまう。
(それでも、僕のことだけはより懸命に見える、なんて自惚れかな。自分をないがしろにするところは目が離せなくて……)
彼女の姿を思い浮かべるだけで、サイラスは胸が温かくなる。けれど同時にサイラスを苛む。
「……レベッカが本当の恋人でも、そうじゃなくても。誰が恋人であったとしても、僕は不誠実なことをしているんだろう。誰なのかを明らかにできるのに、それをすぐに発表しないんだから」
もともと恋人を確認しなかったのは、周囲のやっかみから本物の恋人を守るため、そして望んでいないかもしれない婚約者の立場に縛りつけないためだ。とはいえ、そんな事情を誰にも話していないのだから、本物の恋人は不安に思っていることだろう。不誠実極まりない。
(婚約者に縛りつけるのはよくない、なんて言って、本物の恋人がどんなに不安になるかまでは考えていなかったんだら。僕は自己中心的だな)
「殿下は記憶喪失なのですから、仕方ないでしょう」
「それでもね。不誠実な態度をとったことは、誰が恋人であってもいずれきちんと謝罪しようと思うよ」
きっぱりと言うと、ユリシーズはそれ以上言い募るつもりはないようで、肯定も否定もせずに頷いた。
「実は恋人を思い出せたわけではないけど、ぼんやりとわかったことがある」
「何ですか?」
「僕が恋人本人だけじゃなく、他の女性のことも忘れていたのは、恋人に関係のある人物たちだったみたいだ」
「……なるほど」
惚れ薬が変に作用したせいで恋人を忘れただけならばわかりやすかったのに、他の女性も忘れていたのはそのせいなのだろう。忘れている女性のこと自体は思い出せずとも、とある問題について思い出したことがあるのだ。
「偽の恋人の件とは別に、僕は以前からエマーソン侯爵家について後ろ暗いところがないか調べていただろう」
「はい」
「その理由がどうしても思い出せなかったんだけれど……」
記憶喪失になったあとも婚約者を作らない理由は覚えていたのに、グレンダ自身の人となりは忘れていたからこそ、エマーソン家を調べている理由がわかっていなかった。
「グレンダ・エマーソン侯爵令嬢は、王都にいない間も僕とかかわりのある令嬢に嫌がらせの指示をしていたんだね? それも巧妙に証拠が出ないように」
「……はい」
一瞬迷ったようにしてから、ユリシーズは頷いた。
(この反応はユリシーズも知ってたってことか)
内心でサイラスは苦笑する。エマーソン侯爵家の調査については、記憶喪失になっても継続していたし、恋人を誰にも明かさないように指示されていた手前、ユリシーズとしては自分から恋人に繋がる情報の話題を振るわけにもいかなかったのだろう。真面目な男である。ユリシーズの困った様子の顔からそう判断して、サイラスは話を続ける。
「僕はどうやら、エマーソン侯爵家が恋人を害そうとする情報をつかんで、処分するために動いていたらしい。やっぱりこの調査は僕の恋人を守るためだったんだね……」
「はい」
サイラスは執務机の引き出しの裏の隠しスペースにしまわれたエマーソン侯爵家の報告書を取り出す。そこには様々な情報がありいくつか罪に問えるものもあるが、一つ一つの事件規模は小さく、今すぐエマーソン侯爵家を摘発できるような決定的な内容はない。
「そもそも侯爵令嬢が僕に取り入ろうとしているのも、王太子妃におさまってエマーソン侯爵家が王家を裏から操るため……というのが筋のようだ」
グレンダが一人、王子様への恋心をこじらせて暴走しているだけならよかったのだろう。だが、幼い頃に彼女がサイラスに飲ませようとした惚れ薬など、単純に令嬢一人の力だけでは動かせないものが多いのだ。
「状況から考えて、舞踏会で僕に惚れ薬を盛ったのも、エマーソン侯爵令嬢だろうね」
「まだ証拠はつかめていませんが……」
ユリシーズの口惜しげな言葉に、サイラスは頷く。
「エマーソン侯爵家はきっと、また何かを仕掛けてくるだろう」
「そう思います」
「だから……レベッカに護衛をつけようと思う」
「殿下」
ぴくりと眉を動かしたユリシーズは、声をあげたがすぐに口をつぐむ。
「わかってる。誰かを特別扱いにしないためにお前に黙っていてもらってるんだから、本末転倒だよ。だけど、レベッカにエマーソン侯爵令嬢が絡んでいただろう? もう彼女は目をつけられている。なら、次のアクションはレベッカに対して起こされてもおかしくない」
「そうですね」
ちらりと報告書に目を向けて、サイラスはため息を吐く。
「対応が後手にまわってしまっているのが口惜しいけれどね。ともかく、レベッカを守るためにも、全てをきちんと片付けよう」
今後の方針を固めたサイラスは、さっそくレベッカにつける騎士の選定に取り掛かる。王急ないに内通者がいるかもしれない現状だからこそ、慎重に選ばねばならないだろう。
そう話していたちょうどこのとき、レベッカが自室でキャロルに襲われているのだとは、このときのサイラスは思いもよらないのだった。




