20 フィーネ (お終い)
「どのツラ下げてここに来たのよ!この、恥知らず!」
ミリーの叫び声がタウンハウス中に響き、ノーラの部屋まで届いた。
「侍女がそんな大声出すなって!?何よ!これまで私に散々説教してきたくせに、あんたは使用人どころか人として非常識で最低じゃない!これ以上ノーラ様を傷つけたら、私が許さないんだから!」
今日は11月初頭。
ノーラのアクランド伯爵襲爵の儀式はいよいよ明日だ。王城での儀式のため、ノーラは王都のアクランド伯爵家タウンハウスにいる。
聞こえてくるミリーの大声は玄関ホールからだろう。
タウンハウスは領地の屋敷よりも狭い。とはいえ、玄関で叫ぶ声がここまで聞こえてくるとは、ミリーは余程大きな声を出しているようだ。
「ルカが来てミリーが鉢合わせしたようですね」
「コナー、私も一緒に行くわ」
一人出て行こうとしていたコナーを制し、ノーラは自室を出てルカがいるだろう玄関ホールへと向かった。
ーーーーー
「お久しぶりです、ノーラ様。……本日はお話があってこちらに伺いました」
玄関ホールには相変わらず教本の手本のようなお辞儀をしたルカがいた。
ひと月半ぶりのルカ。従者のころより簡素な平民の服を着ているものの、違うのは服装だけで、一見、以前と変わらないように見える。
でも黒い瞳に光はなく、白目と黒目の境目はぼんやりとし、濁っているような眼差しで微笑んでいる。
そのルカと手を繋ぎ、影になるように少し後ろに立っているのはフィーネだ。
10ヶ月前、正しくここアクランド伯爵家タウンハウスの玄関ホールで、フィーネと初めて顔を合わせた時のことを嫌でも思い出させる。10ヶ月前、フィーネはここで父と手を繋いでいた……。
その時のフィーネが着ていた服と今日の服、質は変わらないように見えるのに、今日はどこか着こなせてないように感じるから不思議だ。
フィーネが震える度にシャンデリアの光を反射し艶めいていた髪は、今はパサついていて纏まりがなく、白く透き通っていた滑らかな肌もくすんでしまっていることが原因だろうか。
怯えている姿は相変わらずだ。
相談なく失踪したことへの謝罪どころか、突然訪問してきたいうのに挨拶すらしない。この場をルカに任せただただ震えている。
……本当に怖いだけなら、少しは謝ろうと声を出す仕草が出るわ。黙っている方が謝るよりずっと胆力がいる。お姉さ、いや、フィーネさんは決して気弱で臆病などではないわ。
「まず、謝罪じゃないの?」
今にもルカへ飛びかからんばかりに怒っているミリー。
「ミリー、怒ってくれてありがとう。でも私は大丈夫。これ以上大声を出すとまたグレースに怒られるわよ。……そこの応接間で話をするからお茶をお願いね」
ノーラはミリーへ笑いかけ、玄関ホールに地続きになっている応接間でルカとフィーネと話をすると伝えた。
ここは応接間と呼んではいるが、来客を屋敷の奥へ案内する前に一時的に待機してもらうための広間。玄関ホールや廊下とは一続きとなっていて、区切る壁はなく、長椅子とテーブルは丸見えとなっている。
“ここで話をしましょう”と案内することは、その客人を侮辱しているに等しい。
ノーラを見つめる目つきが一瞬厳しくなったルカは、もちろん辱められてるのだと気づいている。怯えているだけのフィーネは理解しているのだろうか。ノーラにはわからない。
この場所はかつて父とフィーネが朝食後に毎朝一緒に過ごしていた場所でもある。その時にフィーネがここで織っていた織物と織り機はもう撤去してしまっていて、ここにはない。
ノーラが長椅子に座ると、ルカはその対面にある長椅子に座り、フィーネはルカのすぐ隣に腰を下ろした。ノーラとルカが向き合う形で座り、ノーラのすぐ後ろにはコナーが立っている。
しばらくしてミリーがお茶を置いた。
「なぜ、フィーがアクランド伯爵と血が繋がっていなかったと未だに隠しているのですか?ノーラ様がその事実を隠しているせいで、フィーはアクランド伯爵家の魔力を持っていると誤解され、狙われ続けているのです。貴族が雇ったならず者に拐われ私が助け出した。そんな危機一髪な事もありました。行く先々で怪しい人物から接触され、その度に移動を余儀なくされている」
ノーラはフィーネを囮にして自分の身を守っている。そのために、フィーネが父の娘ではなかった事実をわざと隠しているのだ。
アクランド伯爵家の先祖が生贄だった過去を知らないルカは、なぜこんなにもフィーネが狙われるているのか不思議だろう。でも、実際にフィーネは不特定多数から追い狙われている。その現状に、自分の予想が外れて苛立ってもいるはず。
「そうなの?そんな大変なことになっていたなんて、思ってもなかったわ。ごめんなさい。……ルカも前に言ってたでしょ?フィーネさんの身が危険だから守るために行動を共にしてる、そう言い訳したキャルム様へ、それは詭弁だ、フィーネさんを連れ去る労力に対して得られる力が少なすぎる、ありえないって。私もそう考えていたの……」
こうしてルカやフィーネへしれっと嘘を吐けている自分に驚きつつ、ノーラは変な高揚を覚える。少し前までは罪悪感でいっぱいだったはずなのに、“優しく”を意識しないで人を騙すような悪いことまでしている。そんな自分の変化が嬉しいのだ。
おそらくルカは、今のノーラの言葉は真実だと疑ってない。
ノーラが父からの“優しさ”の呪いに囚われてることを、きっと、ルカは知っていた。
そして、ノーラが常に時間に追われるように仕事量を調整し、周囲から人を減らし他者との交流をたち、ノーラを孤立させ自分に依存させていたという、ルカの疑惑。この疑惑が真実なら、その思惑に一切気づかずルカを慕っていたノーラのことを、御しやすいと侮っていたはずだ。
ルカが従者だったころのノーラのままならば、フィーネの身が危険と聞かされたら、間違いなくその危険がなくなるように対処していた。たとえフィーネが、ノーラから親しい人を全て奪った相手だとしてもだ。
父から“何かあったら助けてあげて”と頼まれたフィーネを、“優しい”ノーラは絶対に見捨てることができないと、ルカは理解していた。
実際に、国王からフィーネを囮にすると提案された時、ノーラは動悸が激しくなるほどの罪悪感に苛まれた。王国一番の権力者からの意見に否と答えられなかったために承諾できただけだ。
でも、テオドールの何気ない一言がノーラの“優しさ”の呪縛を解いてくれた。そのことを、ルカは知らない。
今のノーラはフィーネを囮にすることへ罪悪感を持っていない。国王の助言通り、フィーネがこれまで高貴な者として受けていた特権への責務として妥当だと考えている。
ノーラがフィーネの身の危険を知っていて知らないふりをし、ルカの過去の発言を嫌味のように引用したなど、ルカは思ってもないだろう。
「このままではノーラ様は“父親が死んだ途端に異母姉を追い出した極悪非道な人物”となってしまいます。フィーと血縁がなかったと公表する方が、アクランド家の醜聞としてはずっとマシですよ。その後ろの従者は、こんなことも助言しないのですか?」
コナーはルカの挑発に対しても涼しい顔をしている。ノーラを見て微笑むだけでルカへは反論も反応もしない。コナーはノーラを尊重し信頼してくれている。
ここでふとフィーネを見ると、ノーラの視線に気づき、ビクリと震えて隣に座るルカの腕に縋り付いた。ルカが宥めるようにフィーネに微笑みかけている。
フィーネはいつもそうだ。
こういう重要な場面でフィーネは決して喋らない。ただそこにいて、怯え、震え、周囲の成り行きに身を任せている。
でも、これは感情を出さない貴族の処世術と同じだと、ノーラは気付いた。
フィーネは恐怖以外の感情を周りに読み取らせないようにして、本心をひた隠しにしている。現にノーラは一度もフィーネの考えを予測できたことがない。
「それが、その、言いづらいのですが“異母姉の悪評”が多すぎて、意外にも大丈夫なんです……。“あそこまで多情で尻軽なら家を追い出されても仕方ない”と、そう言われているようです」
これは紛れもない真実。
同性の友達を作る前に第二王子とその側近、それと異母妹の婚約者キャルムと親しくしていたというフィーネの行動が招いた結果だ。
アクランド伯爵家の生贄だった過去の件があり、フィーネにはどうしようもない状況だったと、当初のノーラにはフィーネに同情する気持ちがあった。
でも、フィーネはその状況に疑問も持たず、むしろ利用して積極的に自分から令息たちと関わっていた事実をノーラは知ってしまった。
フィーネは仕方なかったのだとノーラが擁護することは、もうない。
「それはっ、ノーラ様の婚約者のせいじゃないですか!キャルム殿が無理やり付きまとってくるのだと。断りたいのに断れないと、私はフィーから相談されてました。思わず私はノーラ様に忠告したのに、あなたは“ただ同級生として仲良くしているだけ”などと悠長なことを言っていたか……」
「なんだ、お前、あの庶子ちゃんに無理やり付きまとってたのか?」
そこへ響いた声。声がした玄関ホールの方へ皆が顔を向けた。
玄関ホールにはキャルムに対して意地悪な含み笑いをしているダリモア辺境伯と、その横で真っ青な顔をして首を振っているキャルムが立っている。
いつのまにか二人が到着していたようだ。
「俺らとの約束の時間にわざわざこんなとこでこいつらと話してたってことは、なんか意味があるんだろ?」
そう問いかけてくる辺境伯の銀髪と、同じく銀色のキャルムの髪からは雫が垂れていた。窓の外を見ると雨が降っている。
侍女長が急ぎ持ってきたタオルを2人に渡す。
「今日の王都は1日晴れの予報だったし、馬車はかったるいからって騎乗にしたんだぜ?この辺に来たら急に雨が降り出したんだよな。……もしかして、あいつ?」
ダリモア辺境伯は突然の雨からテオドールを連想しているようだ。
今ノーラが座っている長椅子の前には大きなテーブルが置いてあり、そのテーブルを囲むように4つの長椅子が置いてある。
ノーラが座る長椅子の右側、ルカとフィーネが座る長椅子の左側に置いてある長椅子にダリモア辺境伯は背もたれに背中を押し付けるようにドスンと座り、その隣にキャルムは大人しく腰を下ろした。
「改めて応接室を案内しないってことは、お嬢ちゃんは俺らのことも歓迎してないみたいだな」
「えっ?ってことは僕のこともかな」
ダリモア辺境伯の嫌味を揶揄うような声を上げたのはレオポルドだ。屋敷の奥から玄関ホールへと歩いてきた。その後ろには護衛のマックスもいる。
キャルムとルカは驚きながらもすぐに立ち上がり、王族であるレオポルドに礼の姿勢をとった。ダリモア辺境伯はゆったりと時間をかけて立ち上がり渋々といった様子で同じく礼をしている。
キョロキョロと周囲を伺い、アクランド伯爵家とダリモア辺境伯家の使用人も、ノーラ以外の全員が礼の姿勢をとっているのに気付いたフィーネは慌てて立ち上がり礼の姿勢を取っている。
その礼はとても綺麗で、フィーネが屋敷に来たばかりの頃にフィーネに付けた教師からとても真面目で習得が早いと言われたことをノーラは思い出していた。
レオポルドはノーラが座る長椅子の左側、残っていたもう一つの長椅子、ダリモア辺境伯とキャルムの対面にある長椅子に座り、マックスはそのすぐ後ろに立った。
レオポルドが楽にするように言い、皆が着席し、ミリーによって全員分の新しいお茶が置かれた。
ルカは無表情だが、顔色が悪い。こんなルカは見たことがないなと、ノーラは思う。
ルカはきっと、自らここに来たと思っていた自分が、そうではなくおびき出されていた可能性に気付いたのだろう。そして、その理由が思い当たらず混乱しているのだ。いや、ルカならもしかしたらもう気づけているかもしれない。
この場で一番混乱しているのは、キャルムだろう。青い顔色のまま無表情でお茶を見ている。
マックスがおもむろにテーブルの上にある空の灰皿へと水晶を転がした。飴玉ほどの大きさの透明な水晶玉が2個、コロコロと灰皿の中を転がっていたが、しばらくして静止した。そこへコナーも同じような水晶玉を2個追加した。
皆が囲むテーブルの上に、灰皿の中に入った4個の水晶玉。
「我々直系王族は、個人の魔力から情報を読み取れる能力を持っているのは、皆、知っているよね。複数人の魔力を見比べれば、その人たちに血の繋がりがあるか分かることだけは公言している。でも、実は、他にも読み取れることはあるんだよ」
レオポルドがそう言うと、雨空に稲妻が走り、窓から光が差し込んだ。
「雷鳴らすのは演出か?」
ダリモア辺境伯は呆れた顔を隠さず呟いたが、正解だ。ここからは見えない位置、声は届く場所にテオドールはいる。
「で、実は他人と交わったか、つまり、性行為したのかも見えちゃうんだよね!見えるのは過去1年くらいの期間分だけだけど。でも、性行為の相手が一緒にいたら、その人とやったことまで分かる」
今度は先ほどよりも大きな雷が落ちた。10歳のレオポルドが言っていい言葉ではないと、衝撃を受けている心情が現れた良い演出だと思う。
レオポルドの言葉を受け、フィーネとキャルムが目に見えてガクガクと震えだした。その震え方に、普段のフィーネの怯え方は演技だったと分かってしまう。
ダリモア辺境伯はもう何が言いたいのか、ノーラが何を求めてこの顔ぶれを集めたのかも分かったのだろう。冷めた目つきになり、つまらなそうな顔を隠さない。
ルカも正確に理解してしまったはずだ。目を見開き、フィーネの方を見ている。
この水晶玉には、この10ヶ月にフィーネと性行為をした者たちの魔力が込められている。
貴族学園は王家の手の者が、アクランド伯爵家はコナーと侍女長が調べた。その結果、フィーネはアクランド伯爵家へ養子入りしてから6人もの人物と性行為を行なっていたことが判明した。
6人に対し、水晶玉の数は4個。残り2人はここにいるルカと、そして、キャルムだ……。
キャルムがフィーネと性行為をしていたと王族が証言する。ノーラはこれでキャルムと婚約解消できる。
シトリン子爵領から帰る馬車の中、テオドールは自身の呪いを解くために相談なくノーラを巻き込んだことを謝ってくれた。申し訳なさそうにその対価を払いたいとテオドールから言われたノーラは、遠慮することなく『ダリモア辺境伯と縁を切りたい。そのためにキャルムとの婚約を解消したいので協力してほしい』と頼んだのだ。
「このことを非公式でも知られたくないって父上はすごい渋ってね、説得が大変だったんだ。だから王族は魔力から肉体関係まで読み取れるってことは、絶対、ここだけの話にしてね!……って、本当は言わなくてもすんだパターンだったみたいだけど」
また、雷が鳴った。皆の顔に光がさすが、窓に背を向けているレオポルドの顔だけは逆光で見えなくなる。
「赤ちゃんのお父さんはキャルム殿だね!」
レオポルドはフィーネのお腹を指差して宣言した。
フィーネは妊娠していた。そのお腹の子供の父親が誰なのかも、ここではっきりとする予定だった。
この10ヶ月にフィーネと性行為をした者たちの魔力を水晶に込め、わざわざこの場へ持って来たのはこのため。
それがキャルムとの子供だと判明したことは、ノーラにとっては一番嬉しい結果だ。
でも、自分の子供だと思っていたルカと、まさか子供ができているとは思っていなかったキャルムと、三男が学生のうちに婚外子を持つことになったダリモア辺境伯にとっては最悪な結果だろう。
「魔力を見比べれば、妊娠の段階でも父親かどうか分かるんだよ。これは、割と知られているかな。何回か依頼されて見たことがあるみたいだし。でも、言いふらすのはやめてね」
もう一度雷が鳴りレオポルドが「もう雷いらないよぉ」と呟いていると、突然、ルカが隣にいるフィーネの首を絞めだした。
その黒い瞳は淀み、憎しみに染まっている。その表情は、死ぬ直前の父の貌を思い出させる。
マックスやコナーがルカを止めようと一歩踏み出したところ、誰よりも早くに動いたのは、ダリモア辺境伯だった。
凄まじい形相で拳を振り上げ、ルカの頬に打ち下ろした辺境伯。ルカは長椅子から吹っ飛ばされ、少し離れた床に倒れこんでしまった。
殴られた頬が痛むのか、ずるずると座り込み立ち上がらない。
その光のない真っ黒な瞳は、ルカと出会った雨の日を思い出させる。
5年前、オーダム侯爵に捨てられ、馬車から放り出され、雨で濡れている地面に膝を突き打ちひしがれていたルカ。
当時のノーラはそんなルカの頭上に傘を差し出したが、ノーラがルカへ傘を差し出すことは、もう、ない。
「この腹にいるのは俺の孫で間違いないんだな?」
恐ろしい形相のダリモア辺境伯の問いかけに、レオポルドも流石に真面目な顔で頷く。
「キャルム、お前は退学だ。ダリモアでこの尻軽とその子供を養うんだ。……お嬢ちゃん、キャルムとの婚約解消を渋ってて悪かったな。でも、この尻軽がキャルムと関係したのはアクランド伯爵令嬢だった時だ。今回は痛み分けで婚約は解消ってことで良いか?そうでなきゃ、周囲に説明するとき、この尻軽はアクランド伯爵令嬢の時に6人もの男を咥え込んでて、王族は魔力から肉体関係まで把握できるって、そう言わなきゃならなくなるぜ」
「婚約は破棄でなく解消で構いません。王族の魔力を読む能力の件は必ず内密にお願いします。……婚約解消の書類はもう用意しています。そちらにサインをお願いします」
ノーラは事前に用意していた書類とペンをコナーに出してもらった。ダリモア辺境伯は椅子に座り直し、サインをするために何枚もある書類の文章を隅から隅まで確認し始めている。仕事が早い。
その確認作業中、ふと、ダリモア辺境伯は顔をあげた。
「おい、そこでぼーっとしてる元従者くん。いいことを教えてやろう。これで、殴った件はチャラな。オーダム侯爵夫人が産んだ嫡男は、つい最近、托卵だったって確定されたようだぜ。……な?」
ダリモア辺境伯に同意を求められたレオポルドは否定も肯定もしない。でも、否定しない時点で肯定とみて間違いないだろう。
「倫理観がねぇ奴ばっかりで嫌になるよな」
ダリモア辺境伯はそう呟き、書類の確認を再開した。
アクランド伯爵家を辞めてフィーネと出奔したりせず、ノーラの従者として働いていたままのルカだったら、おそらく、オーダム侯爵から再度養子入りの連絡がきていただろう。
紹介状なしでアクランド伯爵家を退職してしまった状態のルカが、オーダム侯爵家へ行き、それなりの地位につくのは簡単なことではないはずだ。アクランド伯爵家の特異な魔力を持つフィーネを手土産にしていればまた違っただろうが、それは様々な理由でもうできない。
ルカは顔を上げノーラの方を見た。
「ノーラ様。旦那様が亡くなった非常事態に義理を欠いた行動をして申し訳ございませんでした。……私はそこの女に騙されていたのです。馬丁や下男で構いません。もう一度、このアクランド伯爵家で雇って下さい」
そう言って床に座ったまま手をつき、ノーラを見つめているルカ。
すぐにノーラが首を横に振ると、まるで信じられないものを見るように目を見張って固まっている。
きっと以前のノーラなら、つまり、ルカの中のノーラなら、戸惑いつつも受け入れていた。こんなにもすぐに、はっきりとノーラから拒絶されるとは、ルカにとっては予想外だろう。
「コナー!お前のせいか!ノーラ様はこいつに騙されているのです!こいつは、奥様をたぶらかすだけでなく、あなたのことまで……ぐっ……」
コナーに向かって口汚く罵り始めたルカを、マックスが片手で口をふさぎ、もう一方の手で拘束した。マックスはそのままルカを引きずり、玄関に向かって歩き出した。
もう誰もルカに用はない。ここから追い出すのだ。
「ルカ、エイダはお前のことを信用してノーラ様を任せてたのだよ。ノーラ様がルカを拾ってきた日、オーダム家で辛い思いをして生きることがなくなってよかったと、お前がここに来たことをエイダは心底喜んでいたのに……」
マックスによって引きずられて行ったルカに、コナーがかけた言葉はどこまで聞こえてたのだろう。
フィーネにお腹に子供がいると言われたルカは、自分の父親のようにならないために、妻子を愛し守ろうと頑なになっていたのではないかと、ノーラにはそう思えたが正解は分からないままだ……。
「えっ?こいつ今エイダって?呼び捨て?えぇっ?……もしかして」
ルカのことなど気にせず婚約解消の書類にサインしていたはずのダリモア辺境伯が、手を止め、コナーを見て固まっている。
そんな辺境伯に、ルカを追い出して戻ってきたマックスが爽やかに声をかけた。
「コナーはノーラの母上の恋人だったそうですよ!」
ダリモア辺境伯家とケラハー辺境伯家は同じ武を司る家として古くから何かと対立することが多い。事実、ダリモア辺境伯家の長男ライリーとケラハー辺境伯家の次男マックスは同い年だったために常に競い合う天敵のような関係だったと聞いている。
そんなケラハー辺境伯令息のマックスは、ダリモア辺境伯への攻撃のチャンスを見逃さない。
「コナーとダリモア辺境伯殿は真逆の容姿でおもしろいですね!」
コナーはふわふわで柔らかそうな茶色い髪に、クリッと愛らしい深みどり色の瞳、エクボが可愛らしい愛嬌のある笑顔が印象深く、どちらかというと華奢な体つき。
対してダリモア辺境伯は乱雑で堅そうな銀髪に、威圧感を与える鋭い紫色の瞳、破落戸の頭領にしか見えないほどの強面で、大柄でがっしりと体格がいい。
コナーを恋人にしていたノーラの母が、ダリモア辺境伯を選ぶことはなかっただろう。マックスは暗にそう言っている。貴族お得意の皮肉だ。
ダリモア辺境伯の目が潤んで赤くなっていることに、ノーラは気付いてしまった。
ノーラとキャルムが婚約したのはノーラが9歳、キャルムが10歳だった6年前。
その頃のアクランド伯爵家はあの愚かな父がアクランド伯爵として采配し、病弱な母がそれを支えていた。そんな状態のアクランド伯爵家を出し抜くなど、ダリモア辺境伯にとっては簡単なことだったはず。
それなのに、ノーラとキャルムが婚約してから母が亡くなるまでの4年間、何もなかった。
ダリモア辺境伯が海千山千な面を隠さなくなり、アクランドグリーンの染色方法を盗んだり、転送ゲートを提案して乗っ取りを企てたりと、アクランド伯爵家を食い物にし出したのは、母が亡くなった2年前からだ……。
母はコナーとルカだけでなく、ダリモア辺境伯にまで好意を持たれていたのだなと、ノーラは不思議な気持ちになっていた。
「おい、尻軽。どうせ、子供の髪と瞳の色を母体と同じにする魔道具を使ってるんだろ。それは、お前のジジイが捕まる原因になった違法なブツだ。ダリモアに持ち込ませるわけにはいかない。出せ」
ダリモア辺境伯の八つ当たりのような突然の恫喝にフィーネはすぐに靴を脱ぎ、黒い石が付いたアンクレットを外してダリモア辺境伯へ渡した。そして、ダリモア辺境伯はそれをマックスに渡している。
コナーに頼んだフィーネの祖父マーシャル男爵についての報告書には、マーシャル男爵はこの違法魔道具を密輸し販売していた罪で王家に捕まったと書かれていた。密輸相手の国との話し合いの結果、表向きには男爵は貴族夫人への詐欺の罪だけで捕まったということで処理されたようだ。
きっと、フィーネの母カミラもこの魔道具を使っていたのだろう。
「お嬢ちゃん、これはただの希望を言っているだけだけどな、できるだけ早くに尻軽と血が繋がってなかったことをバラして欲しい。赤ん坊が狙われるのはかなわん。よろしくたのむ。……あと、馬車を貸してくれ。妊婦を雨の中騎乗させたくない」
ノーラは正直、ダリモア辺境伯のことは利益のためには手段を選ばない極悪人のように思っていた。少なくとも家族への愛はあるのだと認識を改める。
ダリモア辺境伯から受け取った婚約解消の書類からは、微かに甘く優しいカモミールの香りがする。こんな優しい香りの香水を愛用しているダリモア辺境伯なら、キャルムもフィーネも生まれてくる子供のことも、なんだかんだで見捨てることはしなさそうだと、全然理由にもならないのに不思議と安心してしまった。
ーーー
襲爵の儀式前日の今日、ルカとフィーネがアクランド伯爵家のタウンハウスを訪ねて来て、そこへダリモア辺境伯とキャルムが居合わせたのは偶然ではない。
ノーラとテオドールがシトリン子爵領へ行っているちょうどその時、ルカとフィーネは見つかった。しかも、悪阻の薬をもらうためにフィーネとルカ二人が市井の小さな病院に行ったことで、王家の手の者が二人を見つけることができたのだ。
そして、ほぼ同時期、キャルムとフィーネには肉体関係があったという情報をレオポルドが掴んでいた。
父とフィーネがアクランドの雨乞い感謝祭へ参加しない理由としていた王都の花ザクロ祭り。その花ザクロ祭りに参加していた第二王子ウィリアムは、偶然フィーネとキャルムの二人を見かけ、二人の間に肉体関係があることに気付いてしまった。レオポルドはそのことをウィリアムから聞き出したのだ。
シトリン子爵領からの帰りの馬車の中で、キャルムと婚約解消したいとノーラから言われたテオドール。
シトリン子爵領から王城へ帰ってきたテオドールは、フィーネの発見と妊娠の報告を受け、レオポルドからもキャルムとフィーネが関係を持っていたことも聞き、ウィリアムに直接話を聞きに行った。
ウィリアムは夏季休業が終わり貴族学園が始まった9月の初めから、ひと月ほど隣国へ交流を兼ねた短期留学をしていて、留学から帰ってきたばかり。
9月の半ばに失踪したフィーネとは、花ザクロ祭り以降会うことがなかったため、ウィリアムはフィーネの妊娠に気づいていなかった。つまり、フィーネは夏季休業中に妊娠したということ。
ウィリアムは自分の側近2人とフィーネが関係していたことを把握していたし、その側近2人以外の男とも多数関係していたことをフィーネの魔力から見ていたそうだ。
シトリン子爵領からアクランドへ帰ってきたノーラはテオドールの緊急の手紙でそれらの衝撃な事実を知り、自分1人では受け止め切れないとテオドール、レオポルド、マックス、コナー、ミリー、侍女長の7人で話し合うことにした。
7月の雨乞い儀式の前日、フィーネは“聖獣に好かれる魔力”を持つアクランド伯爵家の人間は狙われてしまうことを知った。そして、フィーネとキャルムの距離の近さがアクランド伯爵家の醜聞になっているせいで、フィーネが貴族令息と縁を結んでアクランド伯爵家の分家を起こすのは難しいことを知ってしまった。
そのため、まともな婚姻を諦め、キャルムの愛人になるためにわざと避妊せず関係を持ったのではないか、とはコナーの意見。
そのターゲットがキャルムだったのは、あわよくばアクランド伯爵の座を狙っていたからだろうとノーラは言ったが、父親の庇護下にいながら愛人になるにはキャルムがちょうど良かったのではないか、という侍女長の言葉にも一理あると思ってしまった。
フィーネをアクランド伯爵にして自身がその婿になろうと企んでいただろうルカの思惑も絡んでいるため、そこは考えても動機は分からないなとは、テオドールの言葉。
どうであれ、父が亡くなった日に父と血が繋がっていなかったことが判明し、その計画は頓挫して、妊娠がバレる前にとルカと逃亡したのだろうというレオポルドの考えに、皆が納得する。
もしもあのままフィーネがアクランド伯爵家に残り、妊娠していることが周囲に気づかれ、しかも、キャルムと関係を持っていたことまで突き止められたら……。
ただでさえ、父の暴走とはいえフィーネへ継承魔法を使ったことで虹蛇の召喚契約を消滅させてしまっている。
その上、フィーネの妊娠が原因でノーラとキャルムの婚約が破棄されてしまったなら、どんなに優しいノーラだとしても怒り狂い、とんでもない額の賠償金を請求してくるかもしれないのではないか。
それに、父の病室で傷ついているフィーネに手を差し伸べなかったキャルムより、ノーラよりフィーネを選んでくれたルカの方が信頼できるのではないか。
もうここにいる意味はない。
妊娠がノーラにバレる、いや、使用人にバレる前に金目のものを持って逃げた方がいい。
1人は不安だし手中に収めているルカを連れて行った方が何かと役に立つだろう。
このような感じで、マックスとミリーは、まるで劇の掛け合い台詞のように2人で交互にフィーネの考えを言い合った。その、息ぴったりな様子に、やはりこの2人は気があうんだなと、ノーラは密かに嬉しくなっていた。
こうして、方針は決まった。
フィーネは狙われているため見つからないように逃亡する必要があり、定住も就職もできずに余計なお金が減っていくばかりのルカとフィーネ。
王家の手の者が盗み聞きした二人の会話から、フィーネがアクランド伯爵家の娘ではなかったことを公表していないノーラに対し、二人が怒っていることは明白。
アクランド伯爵と血が繋がっていなかったことも、養子になったことも、フィーネの意思はなかったのだから、全てはアクランド伯爵のせい。むしろアクランド伯爵の責任をノーラに取らせ、慰謝料をもぎ取れるのではないかとまで言っていたそうだ。
そこで、食料の調達のために外出していたルカのそばで、王家の手の者が通行人のフリをし、雑談としてアクランド伯爵の襲爵の儀式話をした。さりげなく儀式の日程をルカの耳に入れた。
儀式の予定については新聞にも載ったので、そこからも知っていたはずだ。
儀式のためにノーラは王都に来る。儀式前日なら確実にタウンハウスにいる。それに正式にアクランド伯爵になる前、まだ伯爵令嬢の今なら、万が一不敬罪だと言われても罪は軽くなる。
ノーラのことを舐めているルカならば、この機を逃さないだろう。
もしも、フィーネとルカがアクランド伯爵家のタウンハウスに来る様子がなかったとしたら、無理やり拐って連れてくる予定だった。
そして、キャルムとダリモア辺境伯の二人を儀式前日にアクランド伯爵家のタウンハウスへ招待した。キャルムはノーラの婚約者。少なくともキャルムだけは必ず来るはずだ。
そこへレオポルドが同席し、フィーネとキャルムは性行為をしたことがあると証言してもらうことにした。
その上、お腹の中の子供の父親がキャルムだったならば、確実に婚約解消できる。
でも、フィーネの奔放な性生活のせいで、お腹の中の子供の父親がキャルムではなかった場合も考えないといけなかった。キャルムが父親じゃなかった場合、不貞の証拠がレオポルドの証言だけという状態になってしまうからだ。
キャルムとフィーネが不貞していた件を徹底的に調査し、その調査結果を書面として準備もしていた。
こうして、ノーラはこの話し合いを迎えた。
ーーー
「おい!キャルムも尻軽も、もうお嬢ちゃんと会うのはこれが最後になるだろう。もし会えても明日から伯爵だ。気軽に話しかけれなくなる。何か言っとくことがあったら今言っとけ」
ダリモア辺境伯の大きな声が、この状況にいたる経緯を思い出していたノーラを現実に引き戻す。今はダリモア辺境伯から婚約解消の書類にサインをもらって、後はもうこの場を解散するだけ。
キャルムはノーラを見つめたまま戸惑っているし、フィーネは顔を下に向け俯いている。そして、しばらく無言の時間が流れる。
ノーラは2人の言葉を待たず、自分が伝えたいことを伝えてしまおうと口を開いた。
「キャルム様の手を払ってしまったこと、後悔しております。すみませんでした。あの時のキャルム様は、言葉を選んで必死にフィーネさんを助けようとしてた。私が手を払うまで、キャルム様は私の婚約者としてアクランドのためにと動いてくれていたと思っています。……それに気づくことができず、申し訳ございませんでした」
父に手を払われた時、弱々しい力で軽く振り払われただけなのに、ノーラの心はナイフが刺さったように痛かった。親しいと思っている人から手を払われることが、あんなにも気持ちを傷つける行為なのだと、キャルムの手を振り払った時のノーラは知らなかった。
きっと、ノーラに手を振り払われ傷ついているキャルムの心にフィーネはつけ込んだのだ。その結果の妊娠だとノーラは思っている。
成長と共にいつの間にか目が笑っていない下手くそな笑顔になっていたキャルム。キャルムの笑顔は子供の笑顔から大人の笑顔になる間の、ただただ不器用な笑顔だった。
今となっては、腹に一物ある人、つまりルカのような人ほど、上手に笑って人を騙すのだと知っている。
「ノーラは悪くない。……アクランド伯爵が事故で倒れた時も、召喚契約が消えた時も、そのあとも、僕はずっとずっとノーラが困ってるって分かっていたのに、後ろめたさのせいで動けなかった。何もできなかった。本当にごめんなさい。弱くてごめん。……ノーラは優しいけど、貴族として必要ないほど慈悲深いって少し心配してた。でも、そんな心配必要ないって今日知ったよ。ノーラなら立派にアクランド伯爵としてアクランドの民を守っていける」
キャルムの紫色の瞳に涙が溜まっている。
こちらを見てくれない父と、誤解から遠ざけていた母。そんな家族しかいないノーラにとって、将来家族になると決まっているキャルムはとても大きな存在だった。
キャルムに恋することはなかったけれど、でも、家族愛に近いものは確実にノーラの心に育っていた。
キャルムと婚約解消したいとノーラの方から望んでいたはずなのに、いざお別れとなると、大事なものを抜き取られたような、心に穴が開いたような寂しさを感じてしまう。
ノーラは溢れそうになる涙を堪え、キャルムに手を差し出す。最後に二人で握手をした。
キャルムの手は熱く、汗で湿っていて、こんな場面なのにやっぱり少し気持ちが悪いなと思ってしまう。こういう接触が生理的に無理な人は本能的に合わないのだと、以前本で読んだことを思い出し、婚約解消してよかったのだとノーラは思うことにした。
そして、ノーラはフィーネを見る。
このタウンハウスに来てからまだ一言も声を発していないフィーネ。少なくともこの10ヵ月に6人の男性と体の関係を持っていて、お腹の子供の髪と瞳の色が母体と同じになる違法魔道具を自分の意思で着け、ルカの子供ではないかもしれないと思いながらルカの子供だと騙そうとしていた。
フィーネは素朴で純粋で臆病なだけではないと、この場にいる全員が知っている。
それでもなお、何も言葉を発せず、俯き顔を上げず、怯えた演技をし続けるフィーネ。その本心は誰にもわからない。
「フィーネさん、もうあなたを除籍する書類は王家に提出してしまったの。あの、持ち出していた装飾品は手切れ金として妥当だと思っている。返却を求めることはないけれど、これ以上こちらがお金を払うこともないわ。話し合いせずに出奔したのだから、そこは諦めてほしい」
フィーネは何も答えず、頷くことすらしない。
「あと、カミラさんのお墓のことなんだけど、今はアクランドの神殿にある。王都の神殿か、ダリモアの神殿に移す方が、カミラさんとフィーネさんにとっても、アクランド伯爵家にとってもいいと思うわ。改葬費用はこちらで持つ。王都とダリモアのどちらがいい?」
母親カミラのお墓について聞いても、顔を上げることはない。
そういえば、7月の雨乞いの際に初めてアクランド領に来たフィーネは、墓参りには行っていなかった。もしかしなくても、フィーネはカミラが亡くなってから一度も墓参りをしたことがないのだ。それならば、カミラの墓を気にかけなくてもおかしくないのかもしれない。
……でも、今はどうでも良くても、将来、後悔するかもしれない。
「では、私が勝手に決めるわね。王都のどこかの神殿に移す。移動が終わったら場所は知らせますね。……どうかお体ご自愛ください。無事の出産をお祈りしてます」
ノーラの話が終わり、しばし静寂に包まれる。
ダリモア辺境伯が立ち上がろうとした時、フィーネは顔を上げノーラを見つめてボソリと声を出した。
「織り機、あの織り機を持って帰りたいの……」
久しぶりに真っ直ぐ見つめ合ったフィーネの瞳の青色は、ノーラがいつも鏡で見ている自分の瞳の青色とは違っていた。
もっとちゃんと見つめ合っていたら、もっと早くにその違いに気付けていたかもしれない。
こうして、フィーネは謝ることも、言い訳することも、何をどう考え行動していたのか明かすことも、自分の思いを言葉にすることもなく、雨の中を織り機を持ってアクランド伯爵家を去って行った。
これ以降、ノーラがフィーネと会うことはなかった。
残すはあと2話の予定です。




