現代:正しい努力が、正しく評価されて、報われますように
「今年の八月十二日から十五日にかけて、君は単身実家に帰省している。その間、娘を父親に預けた。気分転換にプールに連れていこうと提案したが、彼女はそれを断った」
「年頃の女の子だもの、プールに連れていこうって男親のほうがおかしいわよ」
「それを横に置いておいてもだ、彼女は父親の前でずっと長袖だったそうだ。薄手のパーカーやカーディガンだったから、クーラーが強すぎるのかと最初は思っていたそうだ。だからクーラーの温度を上げようかと聞いたら、大丈夫だという。――先に言っておくが、父親と本人の言質はとっている」
「なによ?」
「君は難癖つけようとしても、調書として、正式に記録が残っているということだ。――父の家から帰る前日の十四日の夜になって、自分から服を脱いで体のアザを見せたんだよ」
「乙歌! あなた――、いつからそんな淫売になったの!?」
「こういう時、怒鳴れないから警察って嫌なんだ」
険しい表情を浮かべる優穂の代わりに理世が言う。
「なんでそういう発想にいたるのか私はよくわからないんだけど、乙歌さんだって辛かったと思うよ。思春期の女の子が、『父親の下着と一緒に私の服洗濯しないで』って言うご時世に、自分の身体晒して、自分の虐待を訴えたんだから。彼女にとって、助けを求められるのは父親しかいなかった。一時的な恥ずかしさと、いつ終わるともしれない暴力を天秤にかけたんだよ」
「でも、私がやったって証拠は――」
理世はあっけなく告げる。
「目の前に証人がいるじゃないか」
里音が見つめる先、乙歌がいる。
優穂には、彼女の「ごめんなさい」というつぶやきが聞こえてきた。
君が謝る必要が、どこにあるって言うんだ?
「児童相談所から連絡が入り、十五日、君が戻ってくる前に事情聴取を行った。その時に、彼女は六月の斎藤寿々菜付き落とし事件について語ってくれたよ」
今度こそ、里音の顔が凍りつく。
「だって、あの事件の犯人は男でしょ?」
「警察としては一目瞭然だ。あれは男に変装した女の犯行だと」
「証拠は?」
「君は本当に母親として何をしていたんだ? 子供を殴るのは親の特権だなんて言わせない。ゴミの処理はいつも娘任せ」
「学校に行くついでだもの、それくらいいいじゃない!」
「近所の人たちからすれば、家の手伝いをするいい子だ。だが、犯行に使った変装道具をそのままゴミ袋に突っ込むのはお粗末すぎるだろ」
「証拠隠滅としては及第点だと思うけど」
突然口を挟んできた理世を、優穂は冷たい視線で黙らせる。
「とにかくだ、斎藤寿々菜は君の娘と同じ高校の生徒。ネットやテレビでその時の様子を見ていて、犯人の服装もモノクロだが、しっかり覚えていた。それが、自分の家のゴミ袋から出てきた。君の娘はそれをちゃんと保存していた。斎藤寿々菜の件に関してはまだ容疑者だが、先ほどの、階段での行為は現行犯逮捕だ」
優穂が警察用端末で待機させていた警察官を呼ぶ。
里音の囁きは、徐々に大きくなって、叫びに変わる。
「……のため、……娘のためよ!」
そうは言っているが、彼女の目は娘を見ていない。
「私はあんたたちのせいでね、散々よ。だから、自分の娘だけはって、暴力じゃない! この子が何度言っても、何度も何度も同じ場所でミスタッチするから、お仕置きしただけよ!」
「物事には、加減が――」
「優穂、言わせてやって」
理世の言葉に、優穂は押し黙る。
やがて、一階から警官が二人登って来るが、ハンドサインで待機を命じる。
「この子は私と違うのよ。この子は立派なピアニストになる! そのために必要なことだったのよ!」
「……だったら、私が寿々菜ちゃんをホームから突き落としたようなものじゃない!」
乙歌が母親に向かって反抗する。
「私のため? 叩かれるのだって、私がピアノをうまく弾けないから、私のせいだから仕方がないって思ってた。だけど寿々菜ちゃんをホームから突き落としたのはどうして!?」
今まで、こんなふうに娘から感情をぶつけられることがなかったのだろう。
言葉でも。
態度でも。
ピアノでも。
今まで抑え込んできた感情が爆発する。
「まって、乙歌、ママはね、犯人じゃな――」
「だったらさっきのあれはなに!?」
男子高校生を突き落とそうとした。
ステージ上で棄権し、予定時間よりも早くステージから出てきた乙歌は見てしまったのだろう。
自分の母親の犯行の一部始終を。
斎藤寿々菜の事件に関しても、いつも見る母親の動きに似ていると、直感したのではないだろうか?
「お母さんはこんなにも一生懸命なのにって、自分は可愛そうだって、私だって一生懸命だった! お母さんを喜ばせたくてピアノがんばったんだよ! でもさっきああやって人を突き落として、怪我させようってことは、私のピアノに全然満足してないんでしょ? 私の実力じゃ無理だって、だから人に怪我させて、出場者を減らしてでも私に賞を取らせたかったんじゃないの!? ねぇ! ちゃんと答えてよ!!」
「マ、ママはね!」
「逃げるな!」
突然、乙歌の口から発せられた大声に、みんな肩をビクつかせる。
ただ、理世だけは肩をすくめる。
「私は逃げなかった! お母さんから逃げなかった! 練習は二人三脚でも、ステージの上で戦うのは私一人なんだよ! お母さんがしたことは絶対にやっちゃいけないズルだよ! だから私はその責任を取って棄権したの! 寿々菜ちゃんのことだって、ゴミ袋からジャケットとか、もうなにがなんだかわからないものが出てきても、お母さんじゃないって、ずっと信じてきたんだよ。ずっと黙って、隠してきたんだよ。でももう限界だよ! 他人を蹴落としてまで私はピアニストになんてなりたくない! ちゃんと人から支持される演奏がしたい! 私はお母さんの代わりなんかじゃない!」
乙歌は肩で息をしている。
いっぽうの里音はこの数十分で一気に老け込んだようで、息をしているのかさえ危うい。
言葉を失い、その場に崩れ落ちる。
少し離れた場所で呆然と待機していた警官二人を優穂は呼ぶ。
「娘のほうは私が担当する。母親のほうを頼む」
警官二人は短く返事をし、里音を連れていく。
「乙歌さん」
優穂に連れられて歩く少女に、理世は一人、拍手を送る。
胸から上で行う拍手。それは欧州式で、演奏者を褒め称えるもの。
「自分を犠牲にして、母親の分まで罪を背負うんだね」
「根っから悪い人ではない……ですから。私の母親ですし」
「そう」
理世はポケットに手を入れる。
「実のところ、私は彼女に謝りたかった」
「母に?」
「もし、あなたがお母さんとまた話ができる日が来たら、『深澤理世』のことを聞いてみたらいい」
「理世」
優穂が諌めるが、理世は軽く笑って話を続ける。
「たぶん、あなたの母親の人生にターニングポイントがあるとすれば、それは『深澤理世』という存在に他ならない。あなたが傷つけられたのも、私のせいでもある。だから、ごめん。
あなたの母親は、あなたのためにやったと言うかもしれない。だけど、実のところ、自分のためだったと思う。だから、気に病まなくてもいいと思う。私は純粋にあなたの演奏を聴きたい。だから、ちゃんと戻ってきて」
乙歌は、理世の言葉に、泣き笑いで応える。
「はい」




