現代:母と娘
警察はエントランスホールにいる人たちに事情を説明し、落ち着かせている。
突き落とされそうになった高校生は母親と共に奥の個室で他の警官に事情聴取を受けている。
ステージの方には、事件のことは伝えられていない。
そろそろ、全員弾き終わって、審査が始まるはずだ。
私は二階の廊下に設置された椅子に優穂さんと並んで腰かけている。
「目撃者の彼女からは、私が事情聴取する」と言って、優穂さんがこの場に強引に連れてきたのだ。
今、斜め向こうに見える女子トイレの中で、理世さんと里音さんが対峙しているという。
「あの、二人きりにして大丈夫なんですか?」
「音は拾ってるから、何かあったらすぐに突入するよ」
「突入って……」
優穂さんが大学を卒業して警察官になっていたのはメールのやり取りで知っていたけれど、まさか警視庁に配属されていたとは思ってもいなかった。
彼女のことだから、警察官になって、理世さんを傷つけた中学の教師から彼女を守るためとか、そうなのかとメールで聞いたが、はぐらかされた。
「ちなみに、一応捜査なんですか?」
「いいや、たまたま事件に遭遇した。それだけ」
自分も事件が起こると確信していたわけではないので、たまたま巻き込まれただけだ。
でも優穂さんの場合は怪しすぎる。
そもそも、なんでコンクール会場にいるのか?
「なんか、相変わらずですね」
「そう?」
「髪とか短くなって印象は変わりましたけど。というか、よくそんなヒール高い靴であれだけ走れましたね」
「スーツに運動靴なんて、警察だって、言いふらしてるようなものだよ。今はこれくらいでも走りやすい靴とかいくらでも売ってるよ」
「警察でですか?」
「まさか、市販品だよ」
今の彼女の場合、どんなものでも武器にしてしまいそうだ。
「あの」
その場に似つかわしくない少女の声。
「池端さん」
その制服には見覚えがあった。たしか、ニュースで見た――斎藤寿々菜が着ていたものと一緒だ。
「最後の確認だけど、」
優穂さんの声は冷たくて、とても少女に向けられているものとは思えない。
「いいの?」
「はい、最初にお伝えした時点で、私の心は決まっていました」
「そうか」
優穂さんは立ちあがり、少女の肩に手を置いて、トイレの方に向かってゆっくり歩き出す。
「あ、飯塚君」
懐かしい呼び方で、私を呼び、彼女は振り返る。
「このことは記事にしないでね」
苦笑交じりの声。
すべてが一つの線でつながったような気がする。
「当然です。あとは、週刊誌記者とか、そういう人たちの仕事です」
「あっちのほうも、お手柔らかに頼みたいんだがなあ」
たぶん、彼女が肩に手を置く少女についてだろう。
顎下まで伸ばした、内巻きのボブヘアー。
私が間違えてしまったあの人にそっくりだ。
*
「こんなところで会うなんて、奇遇ね」
平然を装い、化粧ポーチをバッグに詰め込む。
「じゃあ、私は先に失礼するわ」
そう言って、その場を後にしようとする里音の腕を、理世は右手でつかんで止める。
「離しなさいよ!」
「ここの監視カメラ、正面玄関前にかなりの数が設置されてる。階段もそう」
「何の話?」
「あなたのしたことは全部記録されている」
「私が? 何をしたって?」
「……」
理世は手を離し。再びポケットに手を入れる。
里音は何か言いたそうに口を開きかけるが、そのまま彼女の脇をすり抜けて、トイレを出ようとする。
だが、その足は、理世の一言で完全に止まる。
「藤田乙歌さんなら、棄権したよ」
里音の顔が、チークの色など関係なく蒼白になる。塗り立ての口紅だけが赤く、まるで全身の血がそこに集まったみたいだ。
理世は振り返り、その背に向かって言う。
「ステージの上で、棄権を宣言した」
「なん、で?」
里音はその場にバッグを落とし、理世のワイシャツの首元を両手でつかみ上げる。
バッグから、落ちた衝撃で、大きなサングラスが零れ落ちる。
ワイシャツのボタンが一個はじけ飛ぶ。
「また、あんたがなんかしたんでしょ! そうでしょ!? じゃなきゃあの子が棄権なんてっ、そんなことなんで知ってるのよ!?」
「確かに、そこらへんの情報については、人脈を使った」
「はっ、さすが有名人ね」
「……知ってたんだ」
「選択授業で音楽一緒だったの、忘れた? 私がいくらがんばっても、声量であんたに負ける。淑子先生はあんたの歌声が好きだった。ピアノだけじゃない、歌でもあんたは!」
里音はワイシャツから手を離すと、力なくうなだれる。
「あんたは、良いわよね。何でも持ってて。あんたみたいなのを天才って言うんでしょうよ。実際、そういうふうに言ってくれる人がたくさんいて良かったわね! でもさ、私にとって天才って言葉は侮辱だから! 差別用語だから!」
「それは私も同意見」
「はっ! 天才って自覚あんの? だったら正々堂々人前に出て唄えば? それとも加工ボイスってやつ? 人前じゃまともに唄えないとか?」
「いや、人が誰かを天才って一言で言って済ませるのは芸がないなって思ってるだけ」
「あんたってホント、人をムカつかせることに関しても一級品ね。今度は腕の骨折なんかじゃ済ませないわよ! ホームから落ちて轢死すればいい!」
「そう思って、斎藤寿々菜さんもホームから落としたの?」
「は? 何を言って――」
「そのままの意味だよ。ムカついたからホームから突き落としたの?」
「私は、やってない、……また、探偵ごっこで私を犯人にしようっていうの!?」
「今回、私はなんの推理もしてない」
「推理もしてないなら、今度こそ誹謗中傷であなたを――」
理世はゆっくりと、左手で里音の後ろを指差す。
「なに?」
里音が振り返ると、トイレの入り口に優穂と、その隣に娘の藤田乙歌が立っていた。
「……お母さん」
「なんで?」
親子そろって同じ髪型。
だが、里音の髪は赤く染められているが、白髪が目立つ。
「お母さん、自首して」
「あなたまで何を言ってるの!? それより、棄権したってどういうこと!?」
乙歌に近づこうとする里音を、優穂が止める。
「今、彼女は警察の保護下にある。話をしたいなら弁護士を――」
「私が何をしたっていうの!?」
「最後に自分の娘と食事をしたのはいつだ?」
優穂が問いかける。
「今日、朝に一緒に食事したわよね?」
母の言葉に、乙歌は浅く頷く。
「だったらその前は?」
優穂は質問を重ねる。「自分で食事を作ってあげたのはいつだ?」
「それは……」
里音の目が泳ぐ。「私だって、片親で、この子を音楽科のある私立に通わせるために仕事が忙しくて。それに、乙歌は一人でご飯、用意できるものね?」
優しく言う母親に対し、娘は頷かない。
一呼吸おいて、娘は告白する。
「お母さんが、いない間は、私……お父さんの家でご飯食べさせてもらったり、一緒にどこかに食べに行ったり」
告白と共に涙が零れ落ちる。
「どうして? ママのことが好きじゃないの? 好きだから私について来たんでしょ!? ねえ!」
娘に縋り付こうとする里音の前に優穂が立ちふさがる。
「区の児童相談所から、藤田乙歌が虐待を受けていると、父親のほうから今年の春先に通報があった。だが、それだけでは警察はおろか、児相も君たち母子に介入することはできない。食事に関しては父親が出来る限り面倒をみるということで落ち着いた。
君は、離婚をする際、父親との面会に対しては特に規制を求めなかったらしいな。だから、この子が父親と食事をしていても、この子に罪はない。加えて、君がしっかり食事を与えてなかった。これは育児放棄と見られても仕方のないことだ」
「で、でも、もう高校生なんだし、自分でご飯くらい作れると思って」
「私だって料理の一つや二つ覚えたかった。今ならお父さんに教えてもらって作れるようになったよ」
「あなた、包丁を持ったの!?」
「支離滅裂だな」
優穂はため息をつく。
「先に乙歌さんから話は聞いていたが、君は『手を怪我するといけない』と言って、包丁はおろか、キッチンにも近づけさせなかったそうだな」
「だって、ピアニストってそういうものでしょ? ねぇ、理世! あんたもそういう家庭で育ったんじゃないの?」
「私は、そういうことはなかった。ピアノだって、親に言われて始めたんじゃなくて自分から始めたことだし。小学生の時にバスケットやってて突き指した時はピアノの先生に怒られたなあ。練習にならないって」
「ほら! ピアニストは怪我をしちゃいけないの。だったらわかるでしょ!? 私の苦労が」
「優穂、口を挟んでいい?」
「どうぞ」
「話を聞いている限り、里音さんよりも乙歌さんのほうがよっぽど苦労して来たんだなって」
「私たち親子のことに口を出さないで!」
優穂が口調を強める。
「君たち親子が良好な関係を築けているのなら私たち警察の出る幕はない。だけど、食事を作らせない、作らない、与えないという育児放棄に加え、君はこの子に何をした?」
「私は何もやってない!」
「だったら彼女の体の傷やアザはなんだ!」
乙歌は耐えられず、両手で顔を覆って泣き出す。




