現在:白昼堂々。彼女の帰還
日学ピアノコンクール本選。
今日は同僚の付添でもなく、個人的に以前と同じローレルホールにやって来た。
ずっとエントランスホールにいたので、途中、同僚に見つかり、苦笑いを浮かべてやり過ごしたが、これは、明日出社した時に上司からなにか言われそうな気がしてならない。
待っている間、中西先生にも会った。
前は安堵の表情を浮かべていた先生の生徒は、今回は打って変わって沈んだ表情を浮かべていた。たぶん、ミスタッチが多かったのだろう。たった一音、かすった程度でも減点対象となる。まったく、音楽の神は演奏者に機械になれといっているのか、どうなのか。
街路樹が暖色に染まるのに比例して、日は短くなった。
本選も、残り数名というところだろうか?
早い時間に演奏を終え、外で軽く食事でも済ませた親子がエントランスロビーに集まってくる。
私の目はずっと、エスカレータの左右に配置された階段に注がれている。
人が増えてきたため、演奏を終えた男子高校生がエスカレータから降りてすぐ、それは運転が停止され、一階の警備員が使用禁止のロープ柵を設置する。
二階のほうは、高校生がエスカレータのタラップに両足を乗せてから、二階側の別の警備員がすでに柵を設置している。
今後、上り下りは階段のみとなるが、のぼる人はたぶんいない。
あとは、演奏を終えた高校生たちが降りてくるだけだろう。
審査結果も、このエントランスホールの一画に張り出されることになっている。
予選とほとんど変わらない。
強いて言えば、予選よりも父兄の数が多い気がする。
予選の時、付き添いが母親だけだったのに対し、今日は男親も目立つ。
腕時計で時間を確認する。あと多くて十名くらい残っているだろうか?
そして目を上げて、階段に視線を戻す。
階下に親族の誰かがいるのだろう。楽譜を片手にブレザー制服に身を包んだ男子高校生がこちらから見て、右手の階段を下りてくる。
その後ろ、人影が目に入り反射的に立ち上がる。
顔の半分くらい隠す大きなべっ甲柄の大きなサングラスにベレー帽。
伸ばされた手には革の手袋。
私が突然、階段に向かって走り出したのに対し、周りの人も、警備員もいぶかしげな表情を浮かべる。
同時に、革手袋が、高校生の肩をつかみ、重心をずらし、階段の下に向かって押す。
あの時と同じようなスローモーションが目の前で再生される。
重心のずれた体が、反転する。
後ろから短い悲鳴が上がる。
こちらに向かって落ちる――寸で、私よりも早く高校生に駆け寄った女性がそれを受け止める。
「大丈夫?」
「は、はい」
階段から落ちそうになった恐怖が続いているのだろう、階段に座らせられたが、肩で息を繰り返し、額には冷や汗が浮かんでいる。
「君、この子をお願い」
「ちょ、優穂さん!」
黒いベリーショートに黒いジャケットの女性は明らかに優穂さんだった。
――今度は、受け止められた。
「君! 大丈夫かい!?」
下から警備員と、彼の母親だろう、駆け上ってきて、安否を確認している。
下のエントランスロビーから階段の様子は丸見えで、動揺が広がっているが、ローレルホールの警備員たちが、落ち着くようにと指示を出している。
「あの」
無線で話しをし終わった警備員に話しかける。
「警察を」
「ああ、それなら上に駆けていった女性から指示されて、今ホールの方から要請をだしたので大丈夫ですよ」
「そうですか……」
今すぐ階段を駆け上り、優穂さんを追いかけたかったが、私が助けたわけではないのに、高校生とその母に涙ながらに感謝されて、その場から動くことができなかった。
そうこうしているうちに、パトカーの音が近づいてくる。
――なんであの女がここにいるの?
彼女は、二階のトイレの個室に籠り、大きなサングラスを外し、皮手袋も脱ぐ。
A4サイズの書類が入るタイプの合皮バッグにそれらと、帽子を無造作に入れる。
ジャケットはリバーシブル。
外側は白に薄紫のチェック模様だがひっくり返せば濃いグレーに早変わりする。
内側が見えないように前ボタンをしっかりとめ、トイレの水を流し、さも用を足しましたという感じで、ハンカチを片手に個室を出る。
個室から出た私は、突き落とし犯じゃない。
普通に手を洗い、さっきまでつけていなかった口紅を丁寧に塗る。
先に個室に入っていた女性が出てきて、隣に立つ。
手を洗う様子もない。化粧を直すわけでもない。
気持ち悪い。
不気味に思って、鏡越しに隣に立った人物の顔を見て、その瞳は見開かれる。
「久しぶり。十五年以上ぶり、かな」
モスグリーンのロングカーディガンのポケットに手を入れながら、彼女は、こちらに顔を向ける。
――死ね死ね死ね!
ヴォイシンクで何度もそう吐きつけた相手。
「深澤、理世……」




