他人の評価
世の中に存在する無数の小説書き(小説を書いている人々)が、何をモチベーションに書き続けているのかは、よく知らない。けれども、それを想像するのは難しくはない。おそらくは、“人に認められる為”なのだろうなと思う。
僕にとって、小説とは、そういうものではない。ポイントとか、アクセス数とか、何次審査まで通ったとか落ちたとか。そういうのとは、全然別個の場所に存在する。もっと根源的なものなのだ。
もちろん、そういうものも気になる。いや、気になる瞬間もある。だが、そんなものは一時期に過ぎない。風邪のようなもの。たまに、風邪を引いて調子が悪い時に熱にうなされるようなもの。その時期が過ぎれば、全くと言っていい程、気にならなくなる。
ハッキリ言って、これは無敵の能力。なにしろ、外部の批難に全く動じないのだから。それどころか、その批難が力になる時すらある。
「なんだ、こいつら。この僕の書く崇高な小説が理解できないのか。よしよし、人々が理解できない領域まで到達しているな。ならば、もっと先へ進んでやれ!」などと思えるからだ。
あるいは、それとは逆。
「クッソ!これだけの作品を生み出しているのに理解されないとは!だったら、もっと理解しやすいように、もっとずっとわかりやすい表現をしてやる!その為には、もっともっと能力を上げなければ!」と、こうなる。
それ以外の時期は、どこ吹く風といった感じ。非難されようが褒められようが、あまり関係ない。いや、褒められれば、ちょっとは嬉しいか?
ただし、それが逆に災いしている可能性もある。こういうやり方だと、頼れるのは自分だけ。外部の要因に一切影響されないから、調子が上がるのも、調子を落とすのも、全部自分の責任ということになる。自分の中の精神状態、それに最も左右されてしまう。
ここで、僕は考える。
「もっと、外部の評価を気にした方がいいのではないだろうか?」と。
そうすれば、褒められたり、評価が上がったりした時に、バリバリと調子よく書き進めることができるようになるのでは?
でも、そこには大きなリスクも伴う。無論、非難を浴びた時に調子を落としてしまう可能性だ。だが、先程の能力を残すことができたなら、どうだろう?つまり、褒められた時には調子が上がり、非難された時には「なにくそ!」と奮起して、それを力に変えるのだ。それが同時にできたならば…
いや、やめよう。やはり、他人を気にしていてはいけない。世界の評価などに頼っていてはいけない。それでは、真に作品の価値を上げることなどできはしない。他人が存在しようが、存在するまいが、変わりなく最高の作品を生み出し続けられること。それが、理想の作家の条件なのだから。




