何でもいいなら、何か書ける
“何でもいいから、何か書きなさい”と言われれば、何かしら書ける。とりあえず、白紙の原稿用紙を文字で埋めていくことはできる。
“短くまとめてくれ”と言われれば、パシッと短くまとめた文章に。“長く書いてくれ”という注文であれば、それに合わせて長い文章を書くことも可能。それくらいの能力は既に持ち合わせている。ただし、それは技術で書いているとも言える。あるいは、経験でと表現すべきだろうか?いずれにしても、条件に合わせた文章を書くなんて雑作もない。
けれども、そこに意味があるかどうかがわからない。
ここで視点を変えてみよう。
“作者が一生懸命書いた文章”というものが存在するとしよう。けれども、それが読者に伝わらなかったとしたら?そこに意味や価値はないのだろうか?
あるいは、全く逆。“作者は、適当に書いている。あるいは、適当ではないにしろ、何の感情も入れずに、技術や経験で書いている”もしも、そういった文章があったとして、それが読者に受け入れられているとしたら?そこに需要が存在するとしたら?
この2つは、一体、どちらの方が価値が高い文章なのだろうか?
“一生懸命書いた”から価値が高いのか?“作者が満足した作品になった”から価値が高いのか?それとも、“読者に受け入れられた”から価値が高いのか?
では、その読者とは誰だ?目の前の読者?目の前で評判が高く、数年後に見向きもされなくなってしまったら、それは価値がない?あるいは、インターネット上の読者?無料で公開している内は読まれるが、本になり値段をつけたらサッパリと読まれなくなったとしたら、その作品には価値がなかったというコトになってしまうのか?
思考を広げ、そういった部分にまで考えを及ばせると、頭が混乱してよくわからなくなってくる。
何が正しくて、何が間違っているのだろうか?
あるいは、そこまで難しく考えずとも、書きたいものをひたすら書き続けるだけでもいいのだろうか?
ならば、この行為が、それ。書きたいものを書いたら、1文また生まれてしまった。




