1. 断罪の夜
「お前の仕事など、下女でもできる」
乾杯の直後、慈善の夜会の大広間に、その声が響いた。吊り燭台の光が、磨かれた白い大理石を冷たく照らす。
薔薇水と蝋の甘い匂いが、息をするたび鼻に残る。
壇の上の王太子フロリモン殿下は、金の巻き毛をかき上げた。空色の目で壇の下の私を見下ろし、細い顎を上げる。片方の口の端だけが、上がっている。
腕に寄り添う男爵家の娘ロレットの、苺色の巻き毛が揺れた。扇より細い手首が扇を開く。その後ろでは、大柄な近衛騎士フィデルが厚い肩を動かさない。壇の脇には財務顧問グラモンが控えている。
私はオリンピア・ブロンデル、二十歳の伯爵家の娘。胸飾りの白い石に、そっと指を添えた。二年前の婚約の日、亡き王妃様がくださったものだ。
下女。宮廷の、下女。ならばぜひ三人ほど雇ってほしい。二年分の帳簿が待っている。侮辱を受けたのに、人手が増える想像で危うく頷きかけた。
殿下が杯を置き、私を指す。
「孤児院の慈善金が、三百枚足りない。帳簿に穴が開いているぞ。お前が預かっていた金だ! 今ここで、申し開きをしてみろ!」
「順番に参りましょう、殿下」
「何の順番だ? 金を盗んだ女の話を、私が聞くと思うか?」
私は息を整え、願い出た。
「まず、その帳簿を拝見させてください。私は一度も見せていただいておりません。出し入れの控えと照らせば、お確かめいただけます」
殿下の口の端から、笑みが消える。
「客人を待たせて、帳簿を広げろというのか? 私の言葉より、その紙が大事か?」
私は殿下を見上げた。
「子供たちのお金です。私をお疑いなら、なおさらお確かめください。盗人と呼ばれて、はいとお返事はできません」
ロレットが扇を閉じ、菫色の目を細める。ぱちん、と乾いた音が、言葉の間に割り込んだ。
「オリンピア様って、いつも数字ばかり。可愛げがありませんのね」
私は口の端に力を入れ、笑顔だけは崩さない。
「可愛げで、孤児院の屋根は直りませんので。お笑いになることではありません」
ロレットは扇で口元を隠し、殿下の袖を引いた。
「まあ、聞きまして? 殿下ぁ、今の言い方! わたくし、怖いですわ。そんなに睨まなくてもよろしいのに」
殿下が、ロレットの肩越しに私へ怒鳴る。
「黙れ! この場でも私に恥をかかせるつもりか? ロレットに謝れ!」
私は背筋を伸ばした。きっちり、が私の鎧だ。声を荒らげたら、この人の用意した盗人の顔になる。
「盗んでおりません。お調べいただくことが、殿下の恥になるのでしょうか? 私を辱める前に、お調べください」
殿下は私へ指を突きつける。
「母上に任された金まで盗んだんだぞ。ここで口答えをする前に、返すと言え!」
「私が返せるのは、私が受け取った金だけです。どの支払いがおかしいのか、お確かめいただけませんか? お話を逸らさないでください」
殿下の指が私から外れ、ロレットへ向いた。
「お前との婚約は破棄する。私の婚約者に、盗人は要らない! 私はロレットを選ぶ。あの娘なら、こんな夜会で私を煩わせない!」
グラモンが、撫でつけた銀髪の頭を下げる。痩せた長身を折り、長い指で書類の角を揃えた。殿下へ差し出す帳簿の写し。細い薄茶の目は、私を素通りする。
殿下は紙を高く掲げる。
「慈善金三百枚を返し終えるまで、宮廷の下女として働け。日課は、私が決めてやる」
殿下は給仕の盆から献立表を取り、裏へ日課を書きつける。声を張って読み上げ、羽根ペンで署名まで添えた。
〈下女の日課。一、五時、洗濯場。二、七時、大廊下の床磨き。三、十時、銀器磨き。四、茶会の日は十四時、給仕。五、二十一時、厨房の皿洗い。休みなし。フロリモン〉
広間に笑いが広がる。書類を重ね、グラモンが声を上げた。
「働いてお返しになる道までお与えになるとは。ご温情でございますな」
向けられたペン先を見ても、私は頭を下げない。
「休みもなく、ですか? その間、慈善金のお仕事はどなたになさるのです? 薪も薬も、届ける人が必要です」
「それこそ下女に任せればよい。お前は書いてあるとおりに働け! 一字も違えずにな」
ロレットが扇の陰で、笑いをこぼした。
「休みがあったら、またお帳簿を数えてしまわれますもの。ねえ、殿下?」
五時。私は朝に弱い。殿下は、もっと弱い。勇ましいのは、起きる時刻を紙に書くところまでだ。
グラモンは献立表に目を落とし、広間へ声を通す。
「王妃様も、お預けになった金がこのような形で戻るとは、お思いにならなかったでしょうな」
私は足を踏みしめた。あの方の名まで、今夜の笑いに渡したくない。
「王妃様のことを仰るのでしたら、あの方が遺された孤児院に、届いた金をお調べください。お名前を出すのは、それからになさってください」
二年、孤児院へ届ける物には、いつも殿下のお名前を添えてきた。毛布で腕が痛くても、その名を添えるときには、少し誇らしかったのに。今夜は献立表の裏の五行で、それごと片づくらしい。
喉の奥が熱い。私は奥歯を噛み、こみ上げる息を押し戻した。泣くなら、帳簿を見せてもらってからだ。涙まで盗みの証にされてはたまらない。
私は頭を上げる。
「その紙は頂戴いたします。ですが、私が預かった金を盗んだというお話には、同意しておりません。働くことと、盗みを認めることは別です。そこは、お間違えのないように」
殿下は献立表を私の足もとへ放った。壇を降り、白い石へ手を伸ばす。
「この飾りも、お前にはもう要らないな」
殿下の手が胸元の飾りを千切った。白い石が大理石で砕け、光が広間を一度だけ撫でる。
「きゃぁっ!」
気づけば、燭台が近い。床に倒れた小柄な娘の、蜂蜜色の髪が崩れて広がる。若草色の目が、ぱちりと開いた。それは――私?!
「へっ?!」「はぁっ?!」
なんと、二人の体が、入れ替わったのだ。
自分の頭のてっぺんって、案外小さい。殿下の体の長い脚がもつれ、借りた大きな手は空を掻いた。
――いや、小さいのではなく、遠いのだ。人を見下ろすにも、限度というものがある。
フィデルが屈み、殿下の体の肘を支える。短い黒髪が光を弾いた。
「殿下、お怪我は? 立っておいでになれますか?」
琥珀色の目が、殿下の顔の中で一拍長く止まる。急かさないその手に支えられ、私は床を踏み直した。
「怪我は、ない。……助かった。手を、もう少しそのままにしていてください」
床の私の体が起き上がる。鼻の上の薄いそばかすまで見慣れた、小さな丸い顔。その顔を歪め、殿下が私の声で叫ぶ。
「私が王太子だ! 体を返せ!」
貴族たちの笑いが弾ける。お気の毒に、と杯の陰で囁く声。ロレットは扇から、大きな目ばかりの小さな顔をのぞかせた。
「まあ、見苦しいですわ。殿下のお情けを、こんな叫び声でお返しになるなんて」
グラモンの頬のこけた長い顔は動かない。薄く開いた唇が、衛兵を呼ぶ。
「錯乱しておりますな。衛兵、この女を下がらせよ」
衛兵の前へフィデルが一歩出た。左の頬の古い刀傷が白い。その肩越しに、衛兵が私の体へ声をかける。
「オリンピア様、こちらへ。これ以上、殿下のお側では騒がれませんよう」
私は殿下の口で、衛兵を制した。
「待て。私から話す。お前たちは、そこまで下がっていろ」
殿下が私の手で、殿下の体の袖を掴む。
「お前だな! 何をした? 返せ! その手も、その顔も、俺のものだぞ! こんな姿のまま連れていかせる気か? オリンピア、黙っていないで答えろ!」
フィデルが、殿下の体の後ろで低く問う。
「殿下、この者をいかがなさいますか? お下がりになるなら、自分がお連れします」
私の顔をした殿下の目に、涙が溜まっていた。私の目は、こんなふうに潤むのか。泣きそうな自分の顔を見下ろすのは、少し息が詰まる。
三秒で決めた。この口で無実を告げても、体が戻れば殿下は覆せる。私を盗人にした言葉だけが残るのは、ごめんだ。だから、断罪はまだ取り消さない。証を握るまで、殿下には殿下の日課を。
(自業自得だわ。ふふっ)
私は殿下の体で屈み、床の日課表を借りた大きな手で拾った。私の手へ握らせ、耳元に口を寄せて囁く。
「命じた暮らしは、どうぞご自分で。では殿下、明朝五時、洗濯場でお待ちしています」




