九話:よわむし
夕食の席では、盾の王子が待っていた。
剣の王子とパトリシアが部屋に入ると立ち上がり、パトリシアの席を引き、エスコートした。
パトリシアはそこに腰を下ろし、二人の王子が座るのを待って訊ねた。
「あの、国王のお加減は如何なのでしょうか……?」
国王は自室からあまり出てこないらしく、食事の席にも同席せず、様態が気になった。今朝、挨拶には伺ったがそれからパトリシアは国王の顔を見られていない。
初対面したときも、国王はやつれて見えたので、心配になった。
「身体のほうは、問題ないさ。父上は、若い者同士で親睦を深めろとおっしゃっていたことだし、気を遣っているのだろう」
「……身体……」
パトリシアは、そういうことならと安堵する気持ちの裏側で、少しだけヘクトールの言葉が気になった。
身体のほうは問題ない――。
暮らしの中で、身体に良い食材だとか、身体の回復に効果がある……だとか、身体の状態を気にすることは、よく耳にする。
しかし、心に良い食材なんて聞いたことがない。
それらはいつも、神への祈りにより救われるのだと教えられてきたが、パトリシアはその心の寂しさを消すことはできなかった。
心労を癒やすために必要なものがなんなのか、満たされない気持ちを埋めるものがどれなのか、この世界の誰もが見つけられていないのかもしれない。
もし、そんな道具があるのなら、パトリシアはそれが欲しいと願わずにはいられない。
ひょっとすると、エルムヴァニアの国王も、似たような気持ちを持ったのかもしれない。
パトシリアは少しだけ空想した。
なんでも、ヘクトールの母であるエルムヴァニア王妃は十年ほど前に他界したのだとか。
それ以降、エルムヴァニア国王は後妻をとっていないことから、王妃のことを心の底から愛していたのではないかと思った。
そして、最愛の妻を喪った心の寂しさを癒やせなかった――。
死後は神の元に逝くという教団の教え、神に祈れば心は救われる――。
それをいくら実践しても、こびり付いた寂しさを消すことができなかったから、国王は啓蒙思想に変わっていった……。
そうだったとしたら、パトリシアはエルムヴァニア王の心情が分かるような気がした。
夕食には魚の他にも肉料理も並んだ。どれも美味しく、王子たちは酒と共に食事を楽しんでいた。
パトリシアも、少しだけ酒を味わった。香りの強い果実酒は、沢山は飲めなかったものの、舌の上で濃厚な甘みを広げ、体温を上げてくれる滋養効果を与えてくれる。
ある程度酒が回り出した頃、剣の王子がパトリシアを見て、楽しそうな声を出した。
「パトリシア、お前の話を聞いてみたい」
「私の、話ですか?」
「それはいいですね。ファウンティアに居たころの、パトリシアを教えて欲しい」
「……」
盾の王子も、同意してパトリシアに興味深そうな視線を向けたが、パトリシアは狼狽えた。
過去の自分の人生の中で、誰かに語って聞かせることができる話がなかったから。
黙り込んでしまったパトリシアを見て、二人の王子は顔を見合わせた。
そして、明るかった空気が濁るみたいに、沈黙が流れた。
(……だめだわ……これじゃ……)
これでは王子を幻滅させてしまう。せっかくの夕食の時間が凍り付いてしまう。温かい料理の味が消えてしまう――。
そう思うと、ますますパトリシアは怖くなってしまった。
「ヘクトール様……。私……」
「ろくでもない毎日だったか?」
「……っ」
剣の王子が、神妙な顔をしてじっと見つめていた。あまりに真っ直ぐで飾り気ない言葉に、パトリシアは伏せていた顔を上げた。
「パトリシアが語ることも辛いのなら、話さなくてもいいのですが……」
「もし、『こんなことを話して、王子の気分を害したら』って思ってるのなら、話せよ」
「王子……」
「弱音を吐けなくて苦しむ心は、毒に蝕まれた身体に似ています」
「物語にもあるだろ。毒の果実は、王子のキスで吐き出された……ってさ」
よく聞く童話の物語だ。
パトリシアは優しい言葉をかけてくれる王子に、武装していた心を解きほぐされるみたいに感じていた。
「なんだったら……本当にしましょうか、キス」
「オレが、お前の中の毒を、吸い出してやるぞ」
「い、い、いえっ! お、お気持ちだけでっ、う、うれしいですっ」
二人が立ち上がって、本当に唇を奪いに来そうだったから、パトリシアは慌てた。
酒のせいかもしれないが、一気に体温が上がった。
胸の高鳴りが早まっていくのを感じる。
「では、話してみてくれませんか」
安心させてくれる優しい声に、パトリシアは少しだけ呼吸を整え、頷いた。
「私は……いつも『足りない』と思って毎日を過ごしていました……」
そう切り出して、パトリシアは語りだした。
ファウンティアでのこれまでの生活を。
誰かに愛されたい、求められたいと願いながら、それが得ることができなかったことを。
王子は黙って、静かに聞いてくれた。たどたどしく話すパトリシアが言葉を詰まらせると、頷いて、パトリシアを待ってくれた。
「王子は私をこんなにも、優しくしてくれるのに……私は怖いのです……その気持ちさえ……」
こんなことを話してしまうのも怖いのに、酔いが回っているせいなのだろうか。
それとも王子が本当に優しい人だから、甘えたのだろうか。
――いいや、違う。
王子が「話せ」と命じて、従う名目ができたからだ。
人に言われたことに頷くのが、パトリシアの役割だからだ……。
パトリシアは、自分が王子の気持ちに応えられるような人間ではないと、吐き出してしまう。
「王子が優しくしてくれるのが……申し訳なく思ってしまうんです……」
本当は王子が消えてしまう前に、子孫を残したいからではないか?
用が済めば、見捨てたりしないか?
(どうせ……離れていくんでしょう……? みんなと同じに……)
こんなことを考える自分自身を、醜い生き物だと思っても、この考えが止まることはない。
どれだけ神に祈っても、その心にある闇が消えないのだ。
灰色に染めた心に、王子が柔らかい筆でなぞり、優しい色を入れていくのが、くすぐったくて嬉しいのに、パトリシアはその色をまた灰色に塗り込んでしまう。
疑ってしまう弱い心が大嫌いで、自己嫌悪が王子を否定するのだ。
「信じて良いぜ」
剣の王子は、そう言ってくれた。
だが、パトリシアは素直に答えることができず、複雑な顔をして、見返すことしかできない。
「……パトリシア。僕らとて、ただただ優しいわけじゃないんです」
「おい……」
盾の王子が、沈んだ表情をして呟いた。
剣の王子は、その言葉を咎めるように遮ったが、盾の王子は剣の王子に視線を向けた。
これまで盾の王子が浮かべていた優しげなものはそこになく、暗いものを孕んだ瞳が、剣の王子に向いていた。
剣の王子は、その目を見て苦悶の表情を浮かべていた。
どちらの顔も、パトリシアが初めて見る王子の表情だった。
「パトリシアのことだけを聞くのは……フェアじゃねえか」
剣の王子は、苦虫を噛みつぶしたような表情だった。
「ヘクトール様……?」
「パトリシア、僕たちもまた、弱さを抱えています」
「弱さ? ……ヘクトール様が……?」
誰からも信頼され、期待を背負い、立派に責務を果たす優しい王子。
そんなヘクトールが弱いとはまるで思えなかった。
強い人なのだとパトリシアは信じて疑わなかった。
「オレたちが優しいって言ったよな」
「……僕たちが優しくできるのは、一つだけ条件があるんです」
二人の王子は、普段の正反対な表情ではなく、二人とも同じ顔をしていた。
その表情は、パトリシアがよく浮かべているそれと同じだった。
自虐の薄笑いだ。取り繕った仮面だ。
「条件……?」
人に優しくできる条件なんてものがあるのか……。
パトリシアは、王子の言葉に自然と興味を引かれた。
今までは王子の甘い言葉に、触れると火傷しそうだからと身を固まらせてしまったが、そのくすんだ瞳で零した彼らの声は、パトリシアに同じ空気を感じさせたからかもしれない。
「その条件は……オレたちが二人に分裂しても変わりないらしい」
「僕も彼も、特定の人にしか優しくできないということを、知ってしまいました」
二人とも、皮肉な笑みを浮かべ、テーブルの料理を見つめていた。
いや、料理を見ているわけじゃないのだろう。誰かを見ていられなくて、そこに落ち着いただけに過ぎない。
「「ヘクトールと言う男は……自分よりも弱い人間にしか、手を差し伸べることができない男なんだ」」
二人は、まるで一人だったころのように、声を重ねて告白した。
「自分よりも……弱い……?」
ざぁん……、と遠くから波の音がする。
無音の時刻など一瞬もないエルムヴァニアは、沈黙の時を教えるように、潮騒を届けてくる。
王子たちと会話しているときは、波の音など気にもしなかったのに、今は妙にその音が反響して聞こえるようだった。
「オレたちは、弱っている人にしか優しくできない人間なんだ」
「……パトリシアを知れば知るほど、あなたは弱っているのだと伝わってくる」
「オレたちの優しさってのは、自分よりも弱い相手に優位に立つことで、優越感を得てる偽善にしかなっていないんだよ」
「最低の……男なんですよ」
偽善者であり、自己満足のために優しさを見せる男だと、ヘクトールは語った。
「これを、お前には言いたくなかった……」
「どうしてですか……?」
「僕らがあなたを好きになった理由が、もしあなたが弱っているからなのだとしたら……」
「オレたちの恋心が、偽物かもしれないって、思いたくなかった」
パトリシアは、力なく告白した王子たちを、見つめていた。
そして、やっと、王子の人となりに触れたのだと理解した。
昨夜、エルムヴァニアに来て王子と出会い、今日一日の中で王子の熱い想いに挟み撃ちにされ続けていた。
パトリシアは、その王子の猛烈な姿勢に緊張していたが、王子も必死になっていたからだったとしたら……。
自分の恋心を、疑っていた王子が、そうではないと夢中でパトリシアに近づいてきていたとしたら……。
(もしかすると……)
と、思った。
(似ているのかもしれない――)
自分を信じることができないパトリシアの気持ちに似たものを、王子も持っていたとしたら。
お互いに、不器用だったのだとしたら……。
(なに、この感覚……)
ぽっと、心の中に弱々しい力が浮かび上がって、それが自分の精神を持ち上げるみたいな感覚があった。
沈みきった泥の沼から、泥を落として浮かび上がるその気持ちは、パトリシアに一つの感情を与えてくれた。
(王子のことを……悲しませたくない……)
そんな気持ちがふいに浮かび上がってきた。
切なそうな顔をしている二人の王子が、なんだかとても愛おしく思えた。
――恋人が悲しむ姿を見たくない――。
ヘクトールの言葉が浮かび上がった。
(こい、ごころ……?)
この、人を思いやりたいと願う気持ちがそうなのだろうか。
またヘクトールの言葉が脳裏に浮かぶ。
つい、今しがた聞いた言葉だ。
――弱っている者にしか優しくできない――。
「おかしな……、ことなのでしょうか……」
パトリシアは、思わず呟いていた。
視線を落としていた二人の王子は、パトリシアにゆっくりと顔を向ける。
「……寂しがっている人を見て、優しくしたいと想うことが……偽善なのでしょうか」
「パトリシア……」
「私は……王子の言うとおり、弱い人間です。誰も信じられず、疑って、寂しがっていてばかりです」
そんな自分が、誰かを想うことなどできなかった。
考えてみると、自分を認めて欲しくて、行動したことはあっても、誰かのためを想って行動したことがない。
そんな自分が、今、弱みを見せた王子たちを見て、何か慰めの言葉を与えたいと願った。
「私……、王子たちを偽善者とは……思いません」
弱いから……、互いに弱いことを理解しているから、寄り添い合いたいと思うだけだ。
この気持ちが、恋心なのかは分からないが……。
「ヘクトール様の……そんな顔を、見たくありません」
「……っ」
ヘクトールは、目を見開いて、パトリシアから目を離せなくなった。
「どうか、ご自身を信じてください……。ヘクトール様は、優しく、気高い男性です」
ざぁん……。
沈黙の瞬間が、また来た。
二人の王子は、どこか憑き物が落ちたような顔をしていた。
まるで、今初めて、ヘクトールとパトリシアが出逢ったような表情をしていた。
そして、盾の王子はきらりと瞳を揺らせ、剣の王子はほんのりと頬を赤らめていた。
恋心なんて知らなかった少年の、初恋の瞬間みたいな、表情だった。
――そのまま静かに夕食は終わり、夜が世界を包み込むと、パトリシアは寝室でベッドに落ち着いた。
今夜もまた王子がやってくるのかと思ったが、二人はやってこなかった。
しかし、寂しさはまるで感じなかった。
心の奥にある、自分を動かした力が、不思議な高揚感を与えていた。