失敗をしたのです。
私の婚約者は、失敗をしたのです。
ここは王都からは南西部にある特にこれといった産業のない町だ。
痩せており、豊かな土地ではないがここで作られるワインは諸外国でも高評価を得ているという。
高台にある屋敷からは、青く澄んだ海が見える。窓を開けると、冷たい風が頬をかすめる。
「私は失敗したようですね」
気付けば髪が肩よりも短くなっていた。
身分のある女性は髪を長く伸ばす。逃避行のさなか若い執事が持っていたナイフで力任せに切ったものだ。
感情を出すなと幼いころから教育された若い執事が、涙を流しながら許しを乞うてきたのは、髪のせいではないだろう。
馬車を襲われ、ナイフで刺された私は執事長に助け出された。それこそ、奇跡に近いものだった。
それが、父の命でないことは二人の表情で分かった。
重傷を負い、もうろうとする意識の中で、執事長に背負われ道なき道をかき分けていく。痕跡を残さないために、移動手段は限られ、まともな食事も宿もとらずにたどり着いたのがこの土地だ。
この地で一番裕福な家に飛び込み、使用人として雇われたのは、運が良かったのか執事長の交渉術なのかはわからない。
長い旅に傷口から感染症、ずいぶんと危険な状態だったようだ。ようやく動けるようになったとき、何気なく触れようとした髪がなかったことに、これが現実だと気付いた。
失敗したのだ、
・・・私が生きている可能性が一つでもあれば、彼の迷いにつながる。
彼の心に深い傷をつけることも承知の上だ、身勝手だとののしられても構わない、
それでも、その先の未来が、
静かで穏やかなものになれば、
彼が幸せになれればそれでいいと思っていた。
泣き崩れる孫に罰を待つ罪人のように目を伏せる執事長。
私は失敗してしまうほどに、誰かに思われていたようだ。
「サラ―!!2階の客室にワインを持って行け、一番高い奴だ!!」
この屋敷の主がけだるげにキッチンに声をかける。
「はい!!」
洗い物の手を止め急いで振り返るが、主の姿は見えなくなっていた。
いつもよくしてくれる女性が心配そうな眼をするが、笑顔で大丈夫と答えた。
少しずつではあるが、屋敷の仕事を手伝わせてもらっている。
執事長の孫として病弱な娘と伝えられているせいか、誰もがやさしく接してくれた。あの二人が優秀すぎるという点も大きいだろうが。執事長があなたのワインを作り上げて見せますと、謎の方向性を見せているので、ほどほどにしてもらいたいと思っている。
貯蔵庫にはいり、一番名前の有名なワインを手に取る。ワインに対して特に思い入れはないので、こういった仕事は苦手だ。若い執事ならば、相手の好みや食事に合わせたものを用意するだろうが、彼は今ブドウ畑で働いている。
結局キッチンの女性に手伝ってもらいながら、ワゴンにワインとすこしつまめるものを用意して、指定された部屋に持って行った。
「そうだね、君は失敗した」
風が彼の金色の髪を揺らす。窓辺で外を見ていた彼は私に気づくとゆっくりと窓を閉め、答えた。
ワゴンでワインとグラスを運んでいて、よかった。おそらく手でもってきていたら、今頃掃除をしていただろう。
「・・・父はこのことを?」
「ねぇ、僕が君に送ったワインの銘柄を覚えている?」
「・・・・・・」
彼は私の質問には答えるつもりはないようだ。彼からもらったワインの銘柄と年代を答えると、満足そうにうなずいた。
「では、ハミルトンの血はワインでできているってまことしやかに言われているのは知っていたかい?」
「・・・いいえ」
「人間の血が流れていない、目的のためなら手段をいとわない。最初は父に重宝されているウィリアム公に対する僻みから言われたのだろうね」
否定したい気持ちが生まれるが、今の私には何も言えなかった。
「僕もあながち間違っていないと思ってしまったよ」
「・・・わかっておられるのでしたら、どうしてここに来たのです。私が・・・多くの人が望むことがお分かりになられない貴方ではないでしょう」
「あぁ、それはとても感じたよ」
目を閉じ、彼は何かを思い浮かべているようだ。
「それでも、僕は決めた」
静かに言い放たれた言葉に驚き、彼を見れば目があった。
「彼女はどうするのです、殿下以外に守れる方がいるのですか?彼女はその出生が明らかになった以上、常に危険にさらされます。だからと言って外国にも出ることもかなわない」
「彼女はそんなに弱くないよ。そもそも僕一人で守る必要はない。皆で守ればいい。敵になるのなら、僕は何度でも理解しあえるまで話し合う」
この人は甘いのだ。だが、その言葉に希望を見出してしまうから周囲に人が集まった。
「殿下・・・貴方はご自身の治世が乱れても良いのですか」
「力が足りないなら力をつける、知恵をつける、人の力を借る、・・・諦めるよりもずっといい。皆の望むような美しい芝居である必要はない」
「僕は失敗しても構わないんだ」
言葉を失った私に、彼は笑う。
彼がこうやって手を差し出すのは、何度目だろうか。
ダンスのとき、馬車に乗るとき、立ち上がるとき・・・
数える必要もないくらい、彼にとっては自然なことなのだろう。
良かった。
まだ、私はまだこの手の取り方を覚えているらしい。
彼に連れられてきたのは、屋敷の庭だった。そこからは、斜面に広がるブドウ畑がみえる。
そこにはテーブルセットにティーセットと茶菓子が用意されている。
椅子に座りのんびりとお茶を楽しんでいる人物はすぐに分かった。
気配には敏い子だ。
私たちにすぐに気付き、立ち上がる。勢いが良すぎたのか、テーブルが倒れ、カップもポットも無残な姿になった。
紳士として育てられたはずなのに、気にすることなく、ただ茫然と立っている。
その理由が、近づいて初めて分かった。
パトリックは顔を崩し両の目からはとめどなく涙を流して泣いている。それはもう子供のように。
彼は私の耳元でささやく。
「すべてがうまくいったね」
私は目を見開いて、彼を見つめた。