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『尼将軍は微笑まない 〜「女は黙っていろ」と追われた私が、鎌倉武士を黙らせるまで〜』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)
第一章プロット 『流人の妻』編

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第四話 伊豆の小さな戦

第四話 伊豆の小さな戦 戦は、刀を抜く前から始まっている。


 それを最初に教えたのは、父でも兄でもなかった。


 源頼朝だった。


 だが、その意味を本当に理解したのは、山木兼隆の名が北条の屋敷で重く響くようになってからだった。


「山木の館に、武具らしき荷が入っている」


 宗時がそう告げた時、父の時政はすぐには動かなかった。


 怒りもしなかった。


 慌てもしなかった。


 ただ、囲炉裏の火を見つめたまま、低く言った。


「誰から聞いた」


「市の者から」


 宗時は政子の名を出さなかった。


 政子は襖の向こうで、その声を聞いていた。


 盗み聞きではない。


 そう自分に言い聞かせた。


 家の中で起きることを知るのは、北条の娘として当然だ。


 少なくとも、男たちは都合のよい時だけそう言う。


「確かなのか」


「まだ確かとは」


「ならば騒ぐな」


 父の声は冷たかった。


「山木は平家方の目代だ。武具を蓄えること自体は不思議ではない」


「ですが、夜に布屋を通して運ぶ必要は」


「だからこそ、こちらが動けば罠かもしれぬ」


 宗時が黙る。


 政子は胸の内で、父の言葉を反芻した。


 罠。


 確かにその可能性はある。


 山木がわざと怪しい動きを見せ、北条が探りを入れたところで平家方へ訴える。北条は源氏の残党と通じている、と。


 父は臆病なのではない。


 守るものがある。


 土地、家、人、そして北条という名。


 守るものがある者ほど、動けない。


 では、守るものがない者は強いのか。


 違う。


 頼朝は、奪われたものが多すぎて、かえって動けない男だった。


 父も頼朝も、別の形で縛られている。


 政子は襖の影で、ゆっくりと息を吸った。


 ならば、縛られていない場所から動けばいい。


 男たちが「政」と呼ばない場所から。


 女たちの会話。


 市の噂。


 寺への参詣。


 水汲み場の立ち話。


 そこにこそ、刀を抜く前の戦がある。


 その日の午後、政子は侍女を連れ、寺へ参ることにした。


 表向きは、縁談が進む前の祈願。


 侍女は心配そうに言った。


「姫様、本当に縁談のお祈りでございますか」


「そう見えればよいの」


「見えれば?」


「人は、自分が見たいものを見るものよ」


 侍女は分かったような、分からないような顔をした。


 寺へ向かう道は、市を通る。


 政子は籠を使わなかった。歩くほうが周囲の声がよく聞こえるからだ。


 店先では、魚を売る女が客と値の交渉をしている。


 鍛冶場の前では、若い男が馬具の金具を受け取っていた。


 布屋は開いていたが、昨日より店先の品が少ない。


 奥には、見慣れぬ男の草履が並んでいた。


 政子は足を止めない。


 ただ、侍女に小声で言った。


「帰りに、あそこの布を見ましょう」


「お召し物を?」


「ええ。縁談の話が出ている娘が布を選んでも、おかしくないでしょう」


「姫様……本当に縁談を」


「まさか」


 侍女がほっとした顔をした。


 政子は少しだけ笑った。


「私が布を見るのではないわ。布屋が私を見るのよ」


 寺では、ちょうど山木の館に仕える女房が参っていた。


 政子は偶然を装い、軽く会釈した。


 相手は政子の顔を知っている。北条の娘という立場は、こういう時に役に立つ。


「政子様もお参りでございますか」


「ええ。少し、心を落ち着けたくて」


「まあ。何かご心配ごとでも」


「女の身ですもの。家の話は、私どもには最後に知らされますから」


 女房は一瞬、同情する顔をした。


 政子はその顔を逃さなかった。


 この女も、家の話を最後に知らされる側だ。


 だが、最後に知らされる者ほど、途中の違和感には敏い。


「そちらも、お忙しそうね」


「え?」


「山木様の御館では、近ごろ人の出入りが多いと聞きました。奥向きも大変でしょう」


 女房の目がわずかに泳いだ。


「いえ、そのような……いつもと変わりませぬ」


「そう」


 政子はそれ以上押さなかった。


 問い詰めれば閉じる。


 人の口は、閉じさせるより、開きたくなるように仕向けたほうがいい。


「羨ましいわ。こちらは縁談の話ばかりで、落ち着かないの。嫁ぐ先の家の内情など、女にはなかなか分からないでしょう?」


 女房の顔に、また同情が浮かぶ。


「それは、たしかに……」


「男の方々は、土地や名ばかり気にするけれど、実際に暮らすのは奥ですもの。人の出入りが多い家は、それだけで気を張ります」


 女房は周囲を見た。


 誰もこちらを気にしていない。


 それでも声を低くした。


「……山木様の御館も、近ごろ落ち着きませぬ」


 政子は胸の内だけで頷いた。


 釣れた。


「まあ」


「夜に荷は入るし、若い武士の方々が増えるし。奥の者は、何も聞かされませぬ。ただ、粗相のないようにと」


「怖いわね」


「ええ。それに、御台所様がひどく苛立っておられて」


「御台所様が?」


「はい。急な客ばかりで、膳の支度が追いつかぬと。魚も酒も、前より多く買わせております」


 政子は微笑みを崩さなかった。


 魚と酒。


 武具だけではない。


 人が増えている。


 しかも一時的な客ではなく、滞在する者たち。


 山木は何かに備えている。


「それは大変ね」


「本当に。ああ、申し訳ございません。このような愚痴を」


「いいのよ。女同士ですもの」


 その言葉に、女房は少し気を緩めた。


 女同士。


 男たちが軽んじる言葉。


 だが政子は、その軽さの中にこそ道があると知っていた。


 寺を出る頃には、必要なものはほぼ揃っていた。


 布屋には武具らしき荷。

 山木の館には若い武士が増えている。

 魚と酒の量も増えている。

 奥向きが急な支度に追われている。

 平家方の者が、何かの前に兵を集めている。


 それが北条への牽制か、頼朝への備えか。


 まだ断定はできない。


 だが、ただの噂ではなくなった。


 帰り道、政子は布屋へ寄った。


 店主は政子を見るなり、慌てて頭を下げた。


「これは北条の姫様。ようこそお越しくださいました」


「縁談の話が出ているの。何か、落ち着いた色の布を見せてくださる?」


「それはそれは、おめでとうございます」


 政子はにこやかに笑った。


「まだ決まったわけではないわ」


「いえいえ、北条の姫様なら、どちらへ嫁がれても大事にされましょう」


 嘘が滑らかだ。


 商人の嘘は、武士の嘘より耳障りがよい。


 店主が布を広げる間、政子は店の奥を見た。


 床に、擦れた跡がある。


 重い荷を引きずった跡。


 壁際には、藁くずが落ちていた。布を包むものではない。刀や槍の穂先を包む時に使うような、乾いた藁。


「綺麗ね」


 政子は青みのある布に触れた。


「けれど少し、硬いかしら」


「こちらは上等な品でして」


「そうではなくて」


 政子は布を撫でながら、何気ない声で言った。


「近ごろ重い荷ばかり扱っているから、店主殿の手も硬くなったのではと思ったの」


 店主の手が止まった。


 ほんの一瞬。


 それで十分だった。


「姫様は、よくご覧になる」


「女は布を見るのが仕事ですもの」


 政子は微笑んだ。


 店主は笑ったが、顔色は少し悪い。


 奥から若い男が顔を出しかけ、店主の目で引っ込んだ。


 政子は布を一反だけ買うことにした。


 買えば、訪れた理由が残る。


 疑われにくい。


 帰り際、店主が深々と頭を下げた。


「またのお越しを」


「ええ。今度は、もう少し軽いものを見せてくださいね」


 店主の肩が、わずかに揺れた。


 屋敷へ戻ると、政子はすぐ父に報告しなかった。


 父に直接言えば、また女の言葉として扱われる。


 ならば、男の口から言わせればいい。


 政子は宗時を探した。


 宗時は厩のそばで馬の様子を見ていた。政子を見るなり、露骨に顔をしかめる。


「また何か見つけた顔だな」


「兄上は、私の顔を覚えてくださったのですね」


「頼むから、少しは普通の妹の顔をしてくれ」


「普通の妹とは?」


「兄に面倒を持ち込まない妹だ」


「それは退屈そうです」


 宗時は諦めたように息を吐いた。


「で、何だ」


「山木殿の館に、若い武士が増えています」


 宗時の表情が変わった。


 政子は寺で聞いた話、市で見たもの、布屋の反応を順に伝えた。


 宗時は黙って聞いていた。


 以前なら途中で止めただろう。


 だが今日は最後まで聞いた。


 それだけで、政子は少しだけ兄を見直した。


「……確かか」


「女房の愚痴と、商人の手と、床の傷が同じことを言っています」


「お前は本当に、どこを見ているんだ」


「男の方々が見ないところです」


 宗時は苦く笑った。


「それを父上に言えば、また揉めるぞ」


「ですから、兄上から」


「やはりそう来たか」


「兄上の言葉なら、父上は聞きます」


「お前の言葉を盗むようで嫌だな」


「兄上がそう思ってくださるなら、盗みではありません」


 宗時はしばらく政子を見ていた。


 やがて、真面目な声で言った。


「政子。お前は本当に、頼朝殿に関わるつもりか」


「それは、山木殿の話と関係がありますか」


「ある。山木が警戒しているのが頼朝殿なら、これはただの伊豆の小競り合いでは済まない」


「ならば、なおさら知るべきです」


「危うい」


「聞き飽きました」


「俺は本気で言っている」


「私も本気で聞き飽きています」


 宗時は額に手を当てた。


「お前は、昔からこうだったか」


「兄上が気づかなかっただけです」


 その言葉に、宗時は少し傷ついた顔をした。


 政子は胸が痛んだ。


 兄を傷つけたいわけではない。


 けれど、これ以上、妹だからと包まれているわけにはいかなかった。


「兄上」


 政子は声をやわらげた。


「私は、戦がしたいわけではありません」


「分かっている」


「人が死ぬのも、家が焼けるのも、嫌です」


「ああ」


「だから、刀が抜かれる前に知りたいのです」


 宗時は黙った。


 政子の言葉は、自分でも驚くほど素直だった。


 頼朝の言葉を借りたわけではない。


 けれど、彼と話していなければ出てこなかった言葉かもしれない。


「戦を嫌うから、見て見ぬふりをしたくないのです」


 宗時はしばらくしてから、小さく頷いた。


「分かった。父上には俺から伝える」


「ありがとうございます」


「ただし、今夜は出歩くな」


「なぜです」


「なぜでもだ」


「理由になっていません」


「兄の命令だ」


 政子は少し考えた。


「兄上」


「何だ」


「それは、父上の『女は黙っていろ』と同じです」


 宗時は息を詰まらせた。


 言い返しかけて、結局、何も言えなかった。


 政子は小さく頭を下げた。


「心配してくださるのは分かっています。ですが、命じるなら理由をください」


 宗時は苦い顔をしたまま、低く言った。


「山木の者が、北条の動きを見ているかもしれない。お前が市や寺に出ていたことも、もう知られているかもしれない。夜に出れば狙われる」


「……分かりました」


「それなら聞くのか」


「理由があるなら」


 宗時は疲れたように笑った。


「本当に面倒な妹だ」


「兄上も、少しずつ扱いに慣れてください」


 宗時は父のもとへ向かった。


 政子はその背を見送った。


 男の口で伝わる言葉。


 それが自分の言葉であることを、父は知らない。


 少し悔しい。


 けれど、今はそれでいい。


 聞かれない言葉は、届く形に変えればいい。


 それもまた、戦だった。


 その夜、北条の屋敷には緊張が漂った。


 父は郎党を呼び、何人かに山木の周辺を探らせた。


 表向きは、狩りの下見。


 だが政子には分かる。


 父は動いた。


 つまり、政子の情報は家を動かした。


 誰もそれを政子の手柄とは知らない。


 それでも、胸の奥に小さな熱が残った。


 女の言葉は聞かれない。


 ならば、聞かれる場所へ流せばいい。


 政子は自室で、文箱を開いた。


 今日のことを書きつける。


 山木館、若い武士増。

 魚、酒、多し。

 布屋、床の傷、藁くず。

 宗時、聞く。

 父、動く。


 最後に、少し迷ってから書いた。


 ――小さな戦に、勝った。


 大げさだろうか。


 そう思って、筆を止める。


 だが消さなかった。


 刀は抜いていない。


 血も流れていない。


 誰も政子を褒めていない。


 けれど確かに、何かが動いた。


 これも戦なら、政子は今日、一つ勝ったのだ。


 その時、障子の向こうに人の気配がした。


「政子」


 父の声だった。


 政子は慌てて文を隠し、障子を開けた。


「父上」


 時政はそこに立っていた。


 夜のせいか、昼よりも顔が険しい。


「今日、寺へ参ったそうだな」


「はい」


「布屋にも寄ったと聞いた」


「縁談の話がございましたので、布を見に」


 時政は政子をじっと見た。


 その目は、すべてを見抜いているわけではない。


 だが何かを疑っている。


「政子」


「はい」


「山木の件、そなたが探ったのか」


 政子は一瞬だけ黙った。


 嘘をつくことはできた。


 だが、父は完全には騙せない。


 ならば、嘘ではなく、言葉を選ぶ。


「探ったというほどのことではございません。寺で女房の愚痴を聞き、市で布を見ただけです」


「それを探ると言う」


「男の方々がなさると、そう呼ぶのでしょうか」


 時政の眉が動いた。


「口が過ぎるぞ」


「申し訳ございません」


 政子は頭を下げた。


 謝りながらも、言葉を引くつもりはなかった。


「ですが父上。私は北条の娘です。北条に災いが及ぶかもしれぬなら、知りたいと思いました」


「女が知ったところで、どうなる」


 政子は顔を上げた。


 父の目をまっすぐ見た。


「今日、父上は動かれました」


 時政は黙った。


 その沈黙だけで十分だった。


 政子の言葉は届いている。


 父はそれを認めたくないだけだ。


「私は刀を持ちませぬ。兵も動かせませぬ。ですが、見ることはできます。聞くこともできます」


「それが危ういと言っている」


「危ういものを、見ずにいるほうが危ううございます」


 時政は深く息を吐いた。


 怒鳴られるかもしれない。


 そう思った。


 だが父は怒鳴らなかった。


「……そなたは、母に似たのか、それとも誰にも似なかったのか」


 その声には、怒りだけではないものが混じっていた。


 困惑。


 そして、ほんの少しの諦め。


「父上」


「今後、勝手に動くな」


「それは」


「理由を言え、と顔に書いてある」


 政子は黙った。


 父は渋い顔をした。


「山木の者が動いている。そなたが目をつけられれば、北条の娘というだけでは済まぬ。利用される。脅される。嫁入りどころの話ではなくなる」


「……はい」


「分かったか」


「はい。理由は分かりました」


「理由は、か」


 時政は苦笑に近い顔をした。


「まったく、扱いづらい娘だ」


「よく言われます」


「誰にだ」


 政子は答えなかった。


 時政の目が細くなる。


「頼朝殿か」


 部屋の空気が、ふっと冷えた。


 政子はすぐには答えられなかった。


 その沈黙が答えになった。


 時政は低く言った。


「近づくなと言ったはずだ」


「聞きました」


「従え」


「父上」


 政子は静かに言った。


「あの方は、ただの流人ではありません」


「だから危ういのだ」


「ならば、なおさら見極める必要があります」


「女がか」


「北条が、です」


 時政は言葉を止めた。


 政子は畳に手をつき、深く頭を下げた。


「私は北条を裏切るつもりはございません。ですが、北条が何を恐れ、何を選ぶのか、知らぬまま嫁ぐつもりもございません」


 時政は長く沈黙した。


 やがて、背を向けた。


「縁談の話は進める」


 政子の胸が硬くなる。


「はい」


「だが、急ぎはせぬ」


 政子は顔を上げた。


 時政は振り返らなかった。


「山木の動きが読めぬうちは、家を動かすべきではない」


「……はい」


「勘違いするな。そなたを認めたわけではない」


「承知しております」


「口では何とでも言える」


「父上に似ましたので」


 時政が足を止めた。


 怒るかと思った。


 だが、父は小さく鼻を鳴らしただけだった。


「本当に、扱いづらい」


 そう言い残して、父は去った。


 障子が閉まる。


 政子はしばらく、その場に座ったままだった。


 手のひらが少し汗ばんでいる。


 怖くなかったわけではない。


 父に逆らうことは、家に逆らうことに近い。


 けれど今、縁談は少しだけ止まった。


 山木の動きが、父を動かした。


 自分の見たものが、北条の判断を変えた。


 政子は文箱から先ほどの紙を取り出した。


 最後に書いた一文を見つめる。


 ――小さな戦に、勝った。


 その横に、新たに書き加える。


 ――ただし、次はもっと大きい。


 外では、夜風が庭木を揺らしていた。


 伊豆はまだ静かだ。


 だが静けさの底で、武具が運ばれ、兵が集まり、男たちが腹を探っている。


 頼朝はまだ動かない。


 山木もまだ刀を抜かない。


 父も決断を先に延ばしただけだ。


 けれど、政子はもう知っている。


 戦は、刀を抜く前から始まっている。


 そしてその戦場に、女の居場所がないなど、誰が決めたのか。


 政子は筆を置き、灯を見つめた。


 炎は小さい。


 けれど消えてはいない。


「黙って見ていなさい」


 政子は誰にともなく呟いた。


 宴で笑った男たちへか。


 父へか。


 山木へか。


 それとも、源頼朝へか。


 自分でも分からなかった。


 ただ一つ、確かなことがある。


 北条政子は、もうただの娘ではいられない。


 誰かに嫁がされるだけの姫では終われない。


 伊豆の小さな戦は、まだ始まったばかりだった。

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