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『尼将軍は微笑まない 〜「女は黙っていろ」と追われた私が、鎌倉武士を黙らせるまで〜』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)
第二章 鎌倉創業編

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第十六話 西へ行く前に

 若宮での祈りが終わってから、鎌倉の空気は少し変わった。


 静かになったわけではない。


 むしろ、騒がしさは増していた。


 だがそれは、米蔵の前で言い争う声や、馬屋で若い武士が怒鳴る声とは違う。


 どこか浮き立っている。


 人が、先のことを語り始めた時の騒がしさだった。


「平家の軍が、駿河の方で崩れたらしい」


 最初にそう聞いたのは、手当所へ薬草を届けに来た下男の口からだった。


 その半日後には、米蔵の前で同じ話が出た。


 夕方には、広間で武士たちが声を張り上げていた。


「今こそ西へ出るべきだ」


「平家が怯んでいるなら、京まで一気に」


「佐殿が京へ入れば、源氏の世は定まる」


 政子は御簾の奥で、その熱を聞いていた。


 京。


 その名が出るだけで、男たちの声は変わる。


 伊豆にいた頃、京は遠かった。


 平家の力があり、院や公家の思惑があり、坂東の武士たちには手の届かぬ場所だった。


 だが今、頼朝のもとには兵が集まり、鎌倉には白旗が立っている。


 石橋山で敗れた男が、もう京を語れる場所まで来た。


 それだけを見れば、たしかに胸が高鳴る。


 だが政子の胸は、熱くならなかった。


 冷えたわけでもない。


 ただ、別のものを見ていた。


 鎌倉の米蔵。

 まだ整いきらぬ宿所。

 不満を抱えた御家人。

 昨日まで敵だった家。

 帳面に慣れ始めたばかりの書記役。

 手当所で横たわる傷兵。

 若宮に置いたばかりの死者の名。


 この地は、まだ根を張っていない。


 根を張らぬまま枝だけ西へ伸ばせば、最初の強い風で倒れる。


 広間では、上総広常が大声で笑っていた。


「京へ行くなら、早いほうがいい。平家が逃げ腰のうちに追い散らす。わしの兵も使えるぞ」


 三浦義澄が慎重に返す。


「勢いは大事だが、坂東を空にするわけにはいかぬ」


「臆したか、三浦殿」


「年を取ると、勢いだけでは飯が炊けぬことを知るのだ」


 広常が鼻で笑う。


「飯の話なら、また政子殿が出てくるぞ」


 広間に小さな笑いが起きた。


 政子は御簾の奥で眉を寄せた。


 呼ばれていない。


 だが、話の中にはもう自分の名がある。


 それが面倒でもあり、役に立つ時もある。


 頼朝は、しばらく黙っていた。


 西へ行きたいのだろう。


 政子には分かった。


 頼朝にとって京は、ただの都ではない。


 父が敗れ、兄たちが失われ、源氏の名が砕かれた場所。


 いつか取り戻すべき場所。


 あの流人の頃から、頼朝の中にあった遠い火。


 それが今、目の前まで近づいている。


 手を伸ばしたくならないはずがない。


「佐殿」


 千葉常胤が静かに言った。


「西へ進むこと、それ自体に異はありませぬ。されど、鎌倉を空にした時、後ろを突く者が出ぬとは限りませぬ」


「後ろ?」


 若い武士の一人が言う。


「坂東はすでに佐殿のもとへ集まっているではないか」


 時政が低く笑った。


「集まったことと、従ったことは違う」


 政子は、父のその言葉に目を伏せた。


 同じことを、自分も鎌倉へ入った日に思った。


 父もまた、同じものを見ている。


「常陸の方は、まだ落ち着いておらぬ」


 時政が続ける。


「北にも、様子を見ている者はいる。佐殿が大軍を連れて西へ出たとなれば、鎌倉の留守を試す者が出るやもしれぬ」


「試すなら、叩けばいい」


 広常が言う。


「叩く兵を、どこに置く」


 時政は即座に返した。


 広常が一瞬黙る。


「西へ兵を出すなら、東は薄くなる。東を厚くすれば、西へ出る兵は減る。米も馬も、同じ体を二つにはできぬ」


「理屈は分かるが」


「理屈を無視して勝てるなら、誰も苦労はせぬ」


 父らしい言い方だった。


 広常は不満げだったが、完全には反論しなかった。


 頼朝は、そこでようやく政子のほうを見た。


「政子殿」


 来た。


 御簾の向こうで、いくつかの視線が動いた。


 また女に聞くのか。


 そういう空気が、わずかにある。


 政子はそれを感じながら、静かに答えた。


「はい」


「奥から見て、鎌倉は西へ出られると思いますか」


 問いが大きい。


 だからこそ、政子はすぐには答えなかった。


 女の感想としてではなく、鎌倉の内側を見た者として答えなければならない。


「西へ出ることは、いずれ必要かと存じます」


 まず、否定しない。


 頼朝の顔が少しだけ動いた。


「ですが、今すぐ大きく動けば、鎌倉の内が持ちませぬ」


 広間が静まった。


 広常が腕を組む。


「なぜだ」


「米がまだ安定しておりません」


 政子は一つずつ置いた。


「帳面は動き始めましたが、各家の受け取り方はまだ定まっていない。手当所もようやく形になったばかり。船着き場の記録も始まったばかり。奥の不満も、まだ収まったのではなく、聞く道ができただけです」


 誰も笑わなかった。


 少し前なら、米や手当所の話を広間で出せば、女の細かい話と流されたかもしれない。


 だが今は違う。


 彼らは知っている。


 米が乱れれば兵が怒る。

 手当所が崩れれば兵が減る。

 帳面が乱れれば家同士が疑う。

 奥が荒れれば、表も揺れる。


 政子は続けた。


「若宮で祈りの場を作りました。死者の名も預かりました。けれど、それもまだ一度だけです。鎌倉の人々が“ここに根を下ろす”と思うには、もう少し時が要ります」


「では、西へ出るなと?」


 広常が問う。


「いいえ」


 政子は答えた。


「出るなら、鎌倉を空にしない形で。まず坂東の後ろを固めるべきです」


 時政が政子を見た。


 頼朝も、目を細める。


 政子は言葉を選びながら言った。


「西へ向かう背中を、東から刺される形にしてはなりません」


 広間の空気が変わった。


 その言い方は、誰にでも分かる。


 西へ行きたい者たちにも。


 今すぐ京を夢見たい者たちにも。


「背中を刺される、か」


 広常が低く呟いた。


「気に入らぬな」


「私も嫌です」


「政子殿は、西が怖いのではなく、後ろが怖いのだな」


「はい」


 広常はしばらく黙った。


 そして、ふっと笑った。


「なら分かる。後ろから刺す奴は、先に殴っておいたほうがいい」


「殴るかどうかは、佐殿がお決めになります」


「言い方を上品にするな。意味は同じだ」


 場に小さな笑いが起きた。


 頼朝は、ようやく口を開いた。


「私は、西へ行きたい」


 その言葉は、広間を静かにした。


 頼朝は隠さなかった。


「平家が怯んでいるなら、追いたい。京へ近づきたい。その思いはある」


 政子は、頼朝を見つめていた。


「ですが、鎌倉が崩れれば、西へ行く意味も失われる」


 頼朝は深く息を吐いた。


「まず坂東を固める」


 時政が頷いた。


 千葉も三浦も異を唱えない。


 広常は不満そうだったが、納得はしている顔だった。


「西へ出ぬのではない。西へ出るために、後ろを固める」


 頼朝がそう言うと、広間の空気が落ち着いた。


 ただの慎重論では、武士たちは不満を抱く。


 だが「西へ出るため」と言えば、先へ進むための一歩になる。


 政子は、頼朝の言葉の置き方を見ていた。


 この人は、本当に変わっていく。


 流人だった頃の頼朝なら、もっと内に抱えたかもしれない。


 今の頼朝は、己の欲を認めたうえで、それを政の言葉に変えられる。


 評定が終わると、武士たちは散っていった。


 広常は去り際に政子へ言った。


「政子殿」


「はい」


「西へ行く時は、米の心配は先に言え。途中で飯が足りぬなどと言われたら、わしが暴れる」


「では、暴れないよう先に数えます」


「頼むぞ」


 そう言って、広常は大股で出ていった。


 梶原景時は、最後まで残った。


「政子様」


「はい」


「後ろを固めるとなると、次は誰が本当に従うかを見ることになります」


「ええ」


「帳面では見えぬ忠義もあります」


「見えないから、困るのです」


 景時は少しだけ笑った。


「見えぬものを見るのは、政子様のお得意かと」


「梶原殿ほどではありません」


「私は嫌われるだけでございます」


「役に立つ嫌われ方です」


「それは光栄に受け取っておきましょう」


 景時は深く頭を下げて去った。


 その背を見送りながら、政子は思った。


 この男も、いずれ大きな火種になるかもしれない。


 有能で、嫌われる。


 頼朝に必要とされるほど、周囲の嫉妬を集める。


 政子自身と似たところがある。


 だからこそ、少し怖かった。


 夕方、政子は若宮へ続く道を少し歩いた。


 遠出ではない。


 館から若宮までの、鎌倉の中の短い道。


 数日前に整えたばかりの道には、もう人の足跡が増えていた。


 祈りの場は、一度作れば終わりではない。


 人が通い、手を入れ、祈りを重ねて初めて場所になる。


 途中、松とすれ違った。


 敵方として死んだ夫の名を届けた女だ。


 彼女は政子を見ると、深く頭を下げた。


「政子様」


「松殿。その後は?」


「はい。夫の名を預かっていただいただけで、少し眠れるようになりました」


「そう」


「許されたとは思っておりません」


 松は静かに言った。


「ですが、名をなかったことにされなかった。それだけで」


 政子は頷いた。


「それだけで、明日を越せることもあります」


「はい」


 松はもう一度頭を下げ、去っていった。


 その背を見ながら、政子は胸の奥が少し重くなるのを感じた。


 鎌倉が西へ進むなら、こういう女はもっと増える。


 味方の妻。


 敵の妻。


 降った家の母。


 敗れた家の娘。


 勝った者の陰で、声にならない痛みを抱える者たち。


 そのすべてを拾うことはできない。


 だが、見ないふりをすれば、鎌倉はいつかその痛みに足を取られる。


 夜、頼朝は政子の部屋を訪ねてきた。


 外は冷えていた。


 藤乃が温かい湯を置いて下がる。


 頼朝はしばらく湯呑みを見つめていた。


「今日は、助かりました」


「私は思ったことを申しただけです」


「その思ったことが、私には必要でした」


 政子は少し目を伏せた。


「西へ行きたかったのですね」


「はい」


 頼朝は正直に答えた。


「今でも行きたい」


「でしょうね」


「京は、遠いようで近く見えました」


「はい」


「ですが、あなたの言葉で足元を見ました」


「怒っておられますか」


「まさか」


 頼朝は小さく笑った。


「ただ、痛かった」


 その言葉に、政子は胸が少し痛んだ。


 頼朝の中にある京への思いを、政子は完全には分からない。


 失った家。


 父や兄の記憶。


 源氏の名。


 そこへ手が届きそうになった時、待てと言われる。


 それが痛くないはずがない。


「すみません」


 政子が言うと、頼朝は首を横に振った。


「謝らないでください。痛いことを言ってくれる人が必要です」


「私は、可愛げがありませんので」


「そこがよいのです」


「またそういうことを」


「本心です」


 頼朝は静かに政子を見た。


「私は、時々先を見すぎます。京を見て、足元を忘れる」


「私は、足元ばかり見ることがあります」


「だから、ちょうどよいのでしょう」


 政子は返事に困った。


 頼朝は、たまに何でもない顔で深いところへ言葉を置く。


 そのたびに、政子は少しだけ呼吸を乱される。


「政子殿」


「はい」


「西へ出る日はいずれ来ます」


「はい」


「その時、鎌倉を任せることが増えるでしょう」


 政子は頼朝を見た。


「私に?」


「あなた一人にではありません。北条殿も、三浦殿も、千葉殿もいる。ですが、奥と帳面と手当所と祈りの場。そこを見る目は、あなたにしかありません」


 政子は黙った。


 重い。


 頼朝の言葉は、あまりに重かった。


「今すぐ答えなくてよいです」


「いいえ」


 政子は静かに言った。


「答えます」


 頼朝は待った。


「私は、鎌倉を守ります」


 口にした瞬間、胸の奥で何かが定まった。


 それは頼朝の妻としてだけではない。


 北条の娘としてだけでもない。


 兄の死を抱える者として。


 奥の女たちの声を聞く者として。


 帳面の墨を見てきた者として。


 鎌倉の痛みと不満と名もなき功を拾ってきた者として。


「頼朝殿が西を見るなら、私はここを見ます」


 頼朝は深く頭を下げた。


「頼みます」


「ただし」


「はい」


「勝手に死なないでください」


 頼朝は少しだけ笑った。


「まだそれを言われるのですね」


「一生言います」


「それは困った」


「困ってください」


 二人の間に、静かな笑みが落ちた。


 その後、頼朝はすぐに戻っていった。


 明日から、坂東を固めるための動きが始まる。


 どの家が本当に従うのか。


 どの家が背後で様子を見ているのか。


 西へ行く前に、東の足元を締め直さねばならない。


 政子は文箱を開いた。


 今日のことを書きつける。


 平家軍崩れたとの報、鎌倉に広がる。

 広間、西へ進む声多し。

 佐殿、西へ行きたいと明言。

 されど鎌倉いまだ根浅し。米、帳面、手当所、奥、祈り、いずれも始まったばかり。

 西へ出るため、まず後ろを固める。

 松、眠れるようになったと。敵方の死者の名を預かった意味あり。

 佐殿、いずれ鎌倉を任せること増えると。


 筆が止まった。


 鎌倉を守ります。


 自分で言った言葉が、まだ胸に残っている。


 大きな言葉だった。


 言ってしまった以上、もう戻れない。


 伊豆の娘だった頃から、何度も戻れない場所を越えてきた。


 頼朝の館へ走った夜。


 石橋山の敗報を聞いた朝。


 鎌倉へ入った日。


 若宮で兄の名を聞いた時。


 そして今日。


 頼朝が西を見るなら、自分は鎌倉を見ると決めた。


 政子は最後に一行を書いた。


 ――西へ行く前に、鎌倉を根にする。


 根。


 その字を見つめる。


 根は見えない。


 花にもならない。


 人に褒められることも少ない。


 だが根がなければ、どれほど立派な枝も倒れる。


 女は黙っていろ。


 そう言われた女が、鎌倉の根を見ようとしている。


 可愛げはない。


 華やかでもない。


 だが、必要だ。


 政子は文を畳み、兄の包み布の隣へしまった。


「兄上」


 小さく呼ぶ。


「どうやら私は、根を見る役になりそうです」


 返事はない。


 けれど、兄ならきっと言うだろう。


 お前らしい、と。


 政子は灯を消した。


 鎌倉の夜は、静かではなかった。


 遠くで広常の声が響き、米蔵のあたりで弥七が誰かに何かを説明している。


 手当所では湯が沸き、若宮では灯明が小さく揺れているだろう。


 ここを守る。


 その言葉は、政子の胸の中で、静かに重くなっていった。

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