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『尼将軍は微笑まない 〜「女は黙っていろ」と追われた私が、鎌倉武士を黙らせるまで〜』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)
第二章 鎌倉創業編

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第十五話 勝者だけの祈りではない

 若宮へ向かう道は、朝から人で埋まっていた。


 とはいえ、都の祭礼のような華やかさはない。


 鎌倉の道はまだ粗い。踏み固められた土には昨日ならしたばかりの跡が残り、ところどころに小石が浮いている。布を運ぶ下男たちは足元を気にしながら歩き、馬を引く若い武士は泥を跳ねさせぬよう神経を尖らせていた。


 それでも、人々の顔にはどこか高揚があった。


 ただの陣ではない。

 ただの寄せ集めでもない。

 この場所に、祈りの中心ができる。


 そう思いたい者たちが集まっていた。


 政子は若宮へ続く道の脇で、その流れを見ていた。


 藤乃が隣に控えている。


「政子様、少しお休みになっては」


「まだ始まったばかりよ」


「昨夜も遅くまで死者の名を整理なさっていました」


「死者は、待ってはくれないもの」


 そう言ってから、政子は少しだけ口を閉じた。


 自分で言った言葉が、胸に返ってきた。


 死者は待たない。


 しかし、生きている者は死者を置き去りにしがちだ。


 だから、誰かが名を拾わなければならない。


 昨日までに集めた名は、思った以上に多かった。


 山木攻めで倒れた者。

 石橋山で戻らなかった者。

 安房へ逃れる道で命を落とした者。

 荷を運ぶ途中で敵に斬られた下男。

 負傷者を庇って死んだ若い郎党。

 そして、敵方として死んだ者の名。


 最後のものが、やはり一番難しかった。


 鎌倉のために祈る場で、昨日まで敵であった者の名をどう扱うのか。


 政子はまだ答えを決めきれていなかった。


 ただ、一つだけ分かっていることがある。


 勝った側だけが祈れる場所にしてしまえば、鎌倉は狭くなる。


 昨日の敵を明日の味方にするつもりなら、その死もまた雑に扱ってはならない。


「政子様」


 藤乃が低く声をかけた。


 若宮の入口近くで、小さな揉め事が起きていた。


 女が一人、警護の若い武士に止められている。


 身なりは粗末ではないが、上流の女というほどでもない。年は政子より上だろう。顔色は悪く、袖を握る手が白くなっていた。


「通してください。名を、せめて名だけでも」


「ならぬ。今日は佐殿の御祈願だ。勝手に入れるわけにはいかぬ」


「私は騒ぎを起こしに来たのではありません」


「そう言う者ほど騒ぎを起こす」


 若い武士の言い方に、政子は眉をひそめた。


 怯えた者を雑に扱う声だ。


 あれはよくない。


「藤乃」


「はい」


「行きます」


 政子が近づくと、武士は慌てて頭を下げた。


「政子様」


「何があったの」


「この女が、どうしても中へ入れろと」


「名は?」


 政子は女へ向き直った。


 女は一瞬ためらい、それから深く頭を下げた。


「松と申します」


「誰の名を届けに来たの」


 松の目が揺れた。


「夫でございます」


「夫君は?」


「石橋山で……佐殿とは敵方に」


 周囲の空気が固まった。


 警護の武士の顔に、分かりやすい嫌悪が浮かぶ。


「敵方の者の名を、今日の祈りに入れろと言うのか」


 その声は低かったが、周囲に聞こえた。


 人々の視線が集まる。


 政子は一瞬で理解した。


 これは、ただの入口の揉め事ではない。


 鎌倉がこれからどういう場所になるのかを試す場になってしまった。


 敵だった者の妻が、夫の名を持って来た。


 それを追い払うのか。


 聞くだけ聞くのか。


 祈りに入れるのか。


 ここでの扱いは、畠山のように昨日まで敵だった者たちの奥へ必ず伝わる。


「松殿」


 政子は静かに言った。


「夫君の名は」


「佐原次郎国遠と申しました」


 松は震える声で答えた。


「敵方であったことは承知しております。鎌倉の祈りに名を入れていただけるとは思っておりません。ただ、誰にも名を呼ばれぬまま土に還るのが、あまりに……」


 声が途切れた。


 藤乃がそっと目を伏せる。


 警護の武士は不満げだった。


「政子様、敵方の名まで受ければ、示しがつきませぬ」


「何の示し?」


「味方として死んだ者に」


「では、名を聞くことも許されないの?」


「敵でございます」


「今も?」


 武士は言葉に詰まった。


 政子は続けた。


「死んだ者は、もう鎌倉へ刃を向けません」


 周囲が静まる。


「ただし、味方と同じ扱いにはできません。それは違う。でも、名を聞くことはできる」


 松が顔を上げた。


 政子は藤乃へ目配せした。


「名を控えて」


「はい」


 藤乃が紙を出す。


 松は、まるでそれだけで救われたように肩を震わせた。


「ありがとうございます」


「まだ礼を言うには早いわ」


 政子は言った。


「今日の祈りにどう扱うかは、佐殿と相談します。ただ、名は預かります」


「はい……はい」


 松は何度も頭を下げた。


 そこへ、背後から低い声がした。


「敵の名まで拾うのか」


 上総広常だった。


 今日も声が大きい。


 周囲の者たちが自然と道を空ける。


 広常は松を見て、次に政子を見た。


「政子殿。これを許せば、負けた側が皆、名を持って来るぞ」


「持って来るでしょうね」


「困るだろう」


「困ります」


「なら、なぜ受ける」


「困るからといって、入口で追い払えばもっと困るからです」


 広常の眉が上がる。


「どう困る」


「昨日の敵を味方にしたい時、彼らは思います。鎌倉は、敵だった者の死を道端の石のように扱う場所だと」


 広常は黙った。


「ならば、降る者は降りきれません。奥には恨みが残ります。子には、父の名も聞かれなかったという痛みが残ります」


「だが、味方と同じにはできぬ」


「同じにはしません」


「では?」


「別に控えます」


 政子は答えた。


「鎌倉のために倒れた者。鎌倉に刃を向けて倒れた者。そこは分けます。でも、名を聞いたという事実は残します」


 広常はしばらく政子を見ていた。


 やがて、鼻を鳴らす。


「面倒なことをする」


「面倒だから意味があります」


「またそれか」


 広常は苦笑した。


 だが、反対はしなかった。


「いいだろう。だが、味方の名を後ろに回すな」


「もちろんです」


「それなら、わしは何も言わん」


 広常は松へ目を向けた。


「女。夫は敵だったのだな」


 松は震えながら頷いた。


「はい」


「なら、敵として死んだ。そのことは曲げるな」


「はい」


「だが、名はあった。そういうことだ」


 松の目から涙が落ちた。


「はい」


 広常は居心地悪そうに顔を背けた。


「泣くな。わしが悪者のようだ」


 藤乃が小さく笑いかけ、慌てて口元を押さえた。


 政子も少しだけ笑いそうになったが、こらえた。


 この場で笑うには、松の涙が重すぎた。


 松の名と夫の名を控えた後、政子は頼朝のもとへ向かった。


 若宮の支度を確認していた頼朝は、話を聞くと静かに目を閉じた。


「敵方の死者の名」


「はい」


「いずれ来る話でしたね」


「今日来ました」


「どうしたいですか」


 頼朝は、そう問うた。


 命じるのではなく、問う。


 政子は少し考えた。


「味方と同じ祈りには入れません。そこを曖昧にすれば、味方の遺族が傷つきます」


「ええ」


「ですが、別に名を預かる場を作ります。降った家、これから降る家のためにも」


「敵の名を預かる鎌倉、か」


「勝者の余裕に見せることもできます」


 頼朝が政子を見る。


「本音は?」


「死んだ者の名を聞かなかったことにしたくありません」


 頼朝は小さく頷いた。


「分かりました」


「よろしいのですか」


「鎌倉は、これから敵を味方にしていく必要があります。ならば、死者の扱いにも道を作るべきです」


 頼朝は少しだけ空を見上げた。


「勝者だけの祈りにすれば、勝者しか集まりません」


 政子は、その言葉を胸に受け止めた。


 頼朝もまた、分かっている。


 鎌倉は、ただ勝者が敗者を踏む場所では足りない。


 敗者を飲み込み、別の形で使い、家ごと取り込んでいく場所にならなければならない。


 それは優しさだけではない。


 ひどく現実的な政だ。


 けれど現実的であるからこそ、人の痛みを無視してはならない。


 若宮での祈りは、昼過ぎに始まった。


 移動はすべて鎌倉内で済んだ。


 頼朝の館から若宮まで、整えたばかりの道を人々が進む。


 布が揺れる。

 灯明の油が運ばれる。

 米俵が並ぶ。

 馬具が奉納される。

 弓矢が置かれる。


 誰が先か、また小さな揉め事はあった。


 だが大きな混乱にはならなかった。


 広常が一度「軽いものから運べと言っただろうが」と怒鳴っただけで、若い者たちはすぐ動いた。


 あの大声は、今日も便利だった。


 祈りの場では、死者の名が読み上げられた。


 すべてではない。


 まだ集まりきっていない名もある。


 だが、今日読める名だけを読んだ。


 北条宗時。


 その名が響いた時、政子は呼吸を忘れた。


 父の時政は、顔を動かさなかった。


 頼朝は、ほんの少し頭を下げた。


 政子は唇を噛んだ。


 泣かない。


 ここで泣けば、兄の名が政子だけのものになってしまう気がした。


 今日、兄の名は鎌倉の中へ置かれた。


 政子一人の痛みではなく、鎌倉が覚える名になった。


 それでいい。


 そう思おうとした。


 けれど、胸は痛かった。


 痛みが消えるわけではない。


 ただ、置く場所ができただけだ。


 味方の死者の名が読み終えられた後、頼朝が静かに告げた。


「また、鎌倉に刃を向けて倒れた者の名も、別に預かる」


 周囲がざわめいた。


 敵の名を。


 ここで。


 予想していなかった者も多い。


 頼朝は続けた。


「敵味方の別は消えぬ。功罪も変わらぬ。されど、人に名があることまで消すものではない」


 政子は頼朝の横顔を見た。


 この言葉は危うい。


 甘いと見られるかもしれない。


 だが、必要だった。


「鎌倉へ降る者、鎌倉と争った者、その家の痛みもまた、いずれこの地へ流れ込む。ならば名を聞く道を閉ざさぬ」


 ざわめきは続いた。


 だが、誰も強く反対しなかった。


 広常が腕を組んで黙っていたことも大きい。


 時政も何も言わない。


 三浦も千葉も静かに受け止めている。


 松は人々の後ろにいた。


 声を出さず、ただ泣いていた。


 夫の名は、今日は読まれなかった。


 だが、預かられた。


 それだけで、彼女には十分だったのかもしれない。


 祈りが終わる頃、空には薄い雲がかかっていた。


 風が少し冷たい。


 人々が散り始める中、政子は若宮の前に立ち尽くしていた。


 頼朝が近づく。


「大丈夫ですか」


「はい」


「宗時殿の名を」


「聞きました」


 政子は答えた。


「泣きませんでしたね」


「泣いたほうがよかったですか」


「いいえ」


「泣いたら、止まらなくなりそうでした」


 頼朝は何も言わなかった。


 ただ、隣に立った。


 それがありがたかった。


 守るのでもなく、慰めるのでもなく、ただ隣に。


「頼朝殿」


「はい」


「祈りの場所は、怖いですね」


「怖い?」


「人の死も、家の思惑も、序列も、痛みも、全部集まります」


「ええ」


「でも、必要です」


「はい」


「鎌倉は、少しだけ重くなりました」


 頼朝は若宮を見た。


「軽い場所では、国は続かないのでしょう」


「そう思います」


 二人はしばらく黙っていた。


 夕方、政子は自室に戻った。


 移動は短かったが、心がひどく疲れていた。


 藤乃が湯を用意してくれたが、政子は先に文箱を開いた。


 今日のことを書かなければならない。


 若宮、祈り。

 味方の死者の名を読む。兄上の名あり。

 敵方の死者の名、別に預かる道を作る。

 松、夫・佐原次郎国遠の名を届ける。今日は読まず、控える。

 広常殿、反対せず。敵として死んだことは曲げるな、と松へ。

 佐殿、勝者だけの祈りにすれば勝者しか集まらぬ、と。

 祈りの場は痛みを置く場所。


 筆が止まった。


 兄の名。


 その字を書こうとして、手が震えた。


 政子は少しの間、目を閉じた。


 北条宗時。


 書く。


 墨が紙に沈む。


 それだけのことなのに、胸が裂けるようだった。


 政子は袖で目を押さえた。


 今日は少しだけ泣いた。


 誰もいない場所で。


 短く。


 それでも、泣いた。


 泣いた後、最後の一行を書いた。


 ――勝者だけの祈りでは、敗者を味方にはできない。


 書き終えて、息を吐く。


 鎌倉はまた一つ、難しいものを抱えた。


 死者。


 敵だった者。


 勝者の誇り。


 敗者の痛み。


 それらを雑に扱えば、いつか必ず刃になって戻ってくる。


 だから、名を預かる。


 祈りの場所を作る。


 それは優しさであり、政であり、鎌倉を広げるための手段でもある。


 政子は文を畳み、兄の包み布の隣へ置いた。


「兄上」


 小さく呼ぶ。


「今日は、名を聞きました」


 返事はない。


 けれど、若宮で読まれた兄の名は、まだ耳の奥に残っている。


 北条宗時。


 その名は、もう政子一人の胸の中だけにはない。


 鎌倉の祈りの中にある。


 政子は灯を見つめた。


 女は黙っていろ。


 そう言われてきた女が、敵の妻の名を聞き、死者の名を控え、祈りの形を整えた。


 誰もそれを武功とは呼ばない。


 けれど、今日の鎌倉に必要だったのは、刀ではなかった。


 名を聞く耳だった。


 痛みを置く場所だった。


 政子は灯を消した。


 闇の中で、涙の跡が少しだけ冷たかった。


 その冷たさごと、明日へ持っていく。


 鎌倉は、勝者だけのものではない。


 そうでなければ、この先に来る多くの敵を、味方へ変えることなどできないのだから。

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