ぼうけんのしおり
備蓄品の保存に使われているテント内でペシェが寝ついたころには、支給品の懐中時計は午前二時を示していた。昼夜を問わず、隠し部屋内の光量は変わることはないらしい。疲労からくる眠気を噛み殺しつつ、ワイナはヘルガが寝泊りしているという大ぶりな野営用テントへと足を向けた。
橙色の灯りが漏れているところを見るに、まだヘルガは床に就いていないらしい。
「ヘルガ。すこし時間いいか」
「よくてよ。どうぞ」
了承を得てから、ワイナはテントへと踏み入った。
かぐわしい珈琲の香りがする。折り畳み式の長テーブルと椅子のほかには、内部に物資らしい物資はない。端のあたりにしわくちゃの寝袋が放られていて、付近に糧食の容器や水筒が転がっているところをみると、すでに数日はここで過ごしているようだった。
ランプの明かりを頼りにテーブルで書類仕事を続けるヘルガの横には、ベルペラの姿もあった。カップから暖かな珈琲をすすりながら、ベルペラはワイナに目をくれた。
「なんだ? アンタも小腹がすいたクチ?」
「君も揃ってるなら都合がいい。」
銀紙に包まれた栄養棒を片手に、ベルペラはチェアでふんぞりかえっていた。あの栄養棒は、ヘーゼルナッツとドライチェリーをチョコレートの脂質で固めた糧食である。普段から食べ慣れている、奥歯を砕くほどのビスケットやパン類、そしてジャーキー類と比べると、格段に豪華なごちそうだった。嗅覚を魅了するココアバターの芳醇で豊かな香りがその証左だ。珈琲と合わせて食えば、そりゃあうまいに決まっている。
「次から次へと卑しいですわね、まったく。おやつパーティ開いてんじゃないんですわよ」
うんざりした様子で、ヘルガはもう一本の栄養棒を投げてよこした。
「違う、今後についての打ち合わせがしたいだけだ。ガーデルマンは?」
「奥のテントで、送還陣の最終調整にかかりきりなんだと。アタシもなんか手伝えそうかなって思って来たんだけど、おやつで黙らされちまった」
「費用を値切りにきておいて何を言ってますの」
「おい組合長、そこは商談って言えよな。多少負かってくれるだけで、アタシのみならずコネまで使わせてやろうっつってんのに」
ベルペラの言い分には何も言わず、ワイナは手にしていた帯本をテーブルに置いた。
「なんですの、これは。どこからくすねてきましたの」
「バケツ頭が大事そうに抱えてた本だ。一仕事終えたらころっと寝たから、拝借してきた」
「なんにしたって手癖は悪ぃな」
「元スリですものね」
心無いいじりに少し傷つきながら、ワイナは本をベルペラのほうへと滑らせた。
「念のため持ち物も確認したが、ポーチには鉄くずとゴミくらいしか入っていなかった。」
「ああ、例の……聖剣獣つながりの話でして?」
「正規隊員というわけでもなかったから、身元は前から気になっていた。ただ、さすがにあれに聖剣獣がどうこうできるとは思えない。無害だよ、あれは」
拙い字で『ぼうけんのしおり』と記された表紙を開くと、ベルペラは眉間にしわを寄せてパラパラと中身をめくった。『天かける姫勇者』に多分に影響を受けた落書きと、物語の主人公が口にした名セリフの数々がとりとめなく書き記されている内容に、どう反応していいかわからないようだった。
「マジで童話に憧れて身一つで迷宮にもぐりこんできたってか。どうかしてんじゃないの」
「何か、本自体に感じるものはあるか?」
「ないよ。呪術なんてもってのほか。ケツ拭くにしたって使えやしない」
刀剣以上に、本という媒体には人間の意思が定着しやすい。読者の生命を害し、得体のしれない魔物を招来する可能性が疑われる魔導書の扱いにあたっては、ひときわ慎重になる必要があった。よほど敵対的な邪念や呪詛の類であれば、工兵寄りの白兵であるワイナでも、これを察知することはできる。ただしこうした超常的な遠隔殺傷手段の予兆や痕跡を敏感に察知し、これを解呪するとなると、技能としては砲手や治癒術師の領分となってくる。ペシェの疑念を完全を晴らすには、どうしてもヘルガやガーデルマン、あるいはベルペラの協力が不可欠だった。
「こんなの見せるためにわざわざ来たの? やること無いなら寝てりゃいいのに」
「懸念点の排除は早いほうがいい。どうせ寝るならガッツリ寝たいからな」
手早く本を閉じると、続いてベルペラはそれをヘルガめがけて差し出した。
「あんなことがあった後とはいえ、さすがに敏感になりすぎですわよ。かわいらしいものじゃありませんの」
もはや世話好きを隠しもしなくなったヘルガが朗らかにそうこぼした。
「それ言い出したらいよいよもって向いてねーだろこの仕事。アタシが言うのもなんだけど、やっぱ足洗ったほうがいいんじゃないの」
「ふん、心にもないことを。今さっき足抜けにも種銭が必要だとおっしゃったのは、他ならぬ貴女ですわ」
「いい返事を待ってるよ、お互いのよりよい未来のために」
「仕事の相談でもしてたのか」
「意外な伝手が多いみたいで驚いたよ。いい機会だから、アタシもアタシで営業させていただいてたところ」
テーブルに広げられた書類の多くは、企業主導の新規探索事業にまつわる企画書やプレゼン資料である。大陸のみならず、海外の外資系企業の名前も見受けられた。なにぶんエドラズワース深墓は広大で、かつ先の第二次国際遠征の肩透かしな結果が囁かれるようになってからは、探索に及び腰になる組織や企業もあった。
だが、それを補って余りあるほど久遠の花嫁、ひいてはその副産物である先史文明の遺物のかずかずや、希少鉱物資源の存在に群がる人々は多い。向こう十年、探求師という職がなくなることはなさそうだった。
自分も次の仕事のあてを探さなければ。ワイナが栄養棒の銀紙を剝がそうとした、そのとき。さも当然かのようにペーパーナイフを手にしたヘルガは、ブナ材の板表紙の断面に切っ先を合わせた。板の側面には、目を凝らさねばわからないほどの隙間があった。一枚の板表紙には、二枚の板が重ねられていたのである。
ためらいもなく、ヘルガは刃をその隙間へと滑らせた。
かこんと乾いた音を立てて、糊付けされていた板同士がたやすく引きはがされた。
「帯本は、オーナーの敬虔さと家柄とを表す装飾品。上流階級のたしなみですわ」
二枚の板に挟まれていたのは、一枚の古羊皮紙である。ペシェの落書きに使われていたものとは質が違う。不自然になめらかで、つやつやとランプの灯りを反射していた。
「感応遺言状か。アタシ実物見るの初めて」
「有事の際、声の出せない状況に陥ったとき、思考をそのまま術の仕込まれた専用の紙に転写する。そうすることで、仮に持ち主が命を落としたとしても、下手人を特定して告発することができるようになる。一昔前の貴族令嬢であれば、必携の装丁ですわね。あたくしも小さいころ、おばあさまに持たされた覚えがありますわ」
「身元を確かめるにはこれ以上ないシロモノってわけだな」
ベルペラが興味深そうに眺める中、紙面に浮かび上がったメッセージを見て、徐々にヘルガの表情から温度が失われていく。
「……」
やがてヘルガは、名も知らぬ誰かの断末魔が記された紙面をテーブルへ置いた。
遺言にしてはやけに落ち着いた筆致。口内を思わせる鮮やかな桃色の文字が示す文章に、ワイナたちは息を吞んで黙り込んだ。
【この闘争に生者が踏み入る余地はない】
【しかし確かに我々は、花嫁への拝謁が叶ったのだ】




