18.5話 ジョンはどうしてもレオナルドを殴りたい。
狼に襲われたあの日、夜がこんなにも長いとは思わなかった。
クロエは得体の知れない何かにでも恐怖して、侍女を失った事に取り乱していた。
抱きしめた彼女の身体はとても冷たい。溢れ出す涙すら、冷たい水のようだった。
何故かふと、俺からナイフを奪いとったクロエを思い出した。冷酷な目、あれは人を殺した事のある表情だった。あの時、確かに俺の知っているクロエじゃなかった、全くの別人だった…。
腕の中で泣くクロエが、俺に手を差し伸べたクロエが、消えてしまわないか不安になった。
その夜は一睡もしないで、疲れ果てた彼女の寝顔を見守っていた。
もし目を覚まして、俺の知るクロエでは無かったら?
自分も得体の知れない不安にかられ、夜が明けるまで恐怖した。
※
救助された後、父に何があったか問い詰められた。
「こっちは一睡もしていないんだ、自室で休ませてくれ。公爵様、近いうちに今後の事についても話し合いましょう。」
舐めた態度に、表情も変えないで父はただ頷いて背を向けた。
言った通り、数日後に父の書斎を訪ねた。父は来るのをわかっていたのか、対面になるように座らせた。
「お前が考えている事を言ってみろ」
面等向かって言われると、これまでの恨み辛みの言葉が洪水みたいに溢れ出しそうだった。
だが今はそれを噛み締め、最も伝えないといけない事がある。
「俺は、王室の花婿候補を辞退する。代わりにレオナルドを差しだせ」
「…理由を聞いても良いか?」
「はっ!冷酷な父上様が初めて息子が反抗した理由を聞きたいだって?笑っちまうよ、 もしかしてあんたもクロエに変えられたようだな?」
クロエの名を出した時、無表情な父の雰囲気が変わった。
「もう、あんた達のもめごとに巻き込むな。俺はお前から公爵の座を奪い、北の統治者になる。」
「…ジョン、その理由を言いなさい。」
その場で剣を抜くだろうと、挑発した態度を取ったのに、ただ俺の話を聞く姿勢に吐き気がした。
俺の思惑は、剣を抜いた父を殺して公爵になるつもりでいたのに…。
「俺が…クロエと結婚する。」
ぽつりと、何故か本音が出た。父親を殺してまで公爵の座を奪う理由の根本は、クロエを手に入れたいからだ。
父は深いため息を吐いて、無言で見つめている。クロエを欲する汚い欲望が、見透かされている気分だった。
「わかった。お前達を王室のもめ事に巻き込んですまなかった。公爵の座はいずれお前に継がせる。私も、お前の祖父も先代のような統治者にはなれなかった…。ジョン、お前は『北の王』として認められる人間になって欲しい。その為に、力をつけろ。協力はする」
父の言葉に混乱した。初めて聞く謝罪の言葉、さらに『北の王』になれとまで言うなんて…。
目の前にいる男は、父では無い別人ではないかと疑わずにはいられない。
「ジョン、話はそれだけか?」
「それだけだと?あんた本当にジャック・フランドル公爵様なのか?あの冷酷な俺の父親か?」
また無言に戻った父だが、急に頭に浮かんだ一つの疑問を無意識に声に出した。
「なあ、この整理がつかない、変な違和感が何なのか教えてくれよ。宿敵の子、クロエを護りたいのは、愛していたアリアの子供だったからだろ? 親友の子、クリスタを護った時と同じなんだ。…あんたは、必死に何を護ろうとしてるんだ?」
自分でも意味のわからない事を言ってしまったと自覚している。
アリアの訃報に、助けを求めた俺の手を振り解き、家族を無視して南部に向かう父の姿と、クリスタを自分の子供よりも大切にした姿が、どうしてだろう…似ている気がした。
「ジョン、いつかは必ず話す。だがまだ、伝える事が多すぎて、整理がつかないんだ。少し待っていてくれ」
ふざけるな、待っていられるか。ここまで喋る父は見た事がない。
この際、問い詰めて全てを吐かせようと思った時だった、使用人が扉の前で慌しく訴える。
「公爵様、たっ大変です!すぐに来てくださいっ!」
何事だと父は扉を開け、真っ青な顔をした使用人が必死に伝える。
「クロエ様が、クリスタ様のお部屋に侵入し!な、中にはレオナルド様がいらっしゃり、クロエ様と口論になっております。」
父は何も言わずに、そのままクリスタの部屋に向かう。俺も松葉杖をつき、父の背を追った。
クリスタの部屋の前には沢山の使用人達が集まっていた。俺は扉の近くで傍観する。
クロエがレオナルドの使用人達に床に抑えつけられた時、後であいつらを始末しようと思った。自分の怒りと同じように、寡黙である父も怒りを抱いてる。
先ほどの疑問はやはり考えすぎだったのか。父はクリスタよりも、クロエを優先している。
父に助け出されたクロエは、フランドル家の秘密であり汚点でもある三男のヨナスと結婚したいと言い出した。流石にこれ以上は寛大な態度は取れないだろうと思っていたが、父は躾された犬のように主人を見つめるだけだった。
「おい、クロエ。なんで俺と結婚するって言わねーんだよ。」
早々に部屋を出るクロエに話しかける。
「あら、ジョン。もう約束を忘れたの?早く北の王にならないとね。 私、どうやら待つのは苦手みたい。」
艶やかな笑みを浮かべ、そう言い捨てるとクロエは行ってしまった。俺たちには想像出来ない言動をするクロエが益々気に入った。
「はっ!まさかヨナスまで巻き込むのかよ。 やっぱりあの女は最高にイかれてやがる。」
その後、父も自室に戻ろうとすると、使用人たちは慌てて見つからないようにと姿を消した。
部屋にはクリスタとレオナルドが無様に取り残されている。
中に入ると、部屋は憎悪が充満したような重苦しい空気を感じた。
項垂れている弟の前に立ち、胸ぐらを掴み、引き寄せた。
「レオ、言われた通りだクロエとは離縁しろ」
「…兄さん、何言ってるんだよ。クロエは僕の妻なんだ」
苦しそうに顔を歪ませた弟が情けなく思えた。
「悪いが、予定変更だ。お前が王室の花婿候補に出ろ。俺がこの家を継ぐ、お父様のお許しは頂いたぜ。クロエは俺が娶る。」
「でたらめ言うな!俺たちは愛し合っているんだ。…クロエは絶対に俺のものだ!」
急に怒りが湧いて、レオナルドの顔を拳で殴った。
レオは目つきを変えた。昔、見た事のある顔なのに、何故かその記憶が霧にで消されるように思い出せない。
でも、この冷酷な目は人を殺した事のある表情だ。
「…お前、その目まだ出来るんだな」
無意識に出た自分の言葉の意味がわからなかった。
だか、そんな事は気にせず、抵抗させないように馬乗りなり怒りに任せて整った顔を何発か殴った。
「あいつがお前のものだって?なら、夫なら妻を蔑ろにして、他の女と楽しく過ごしてんじゃねぇよ。その無様な顔が治るまでクロエには絶対に会うなよ」
急に強烈な殺気のような視線を感じて身の毛がよだつ。
すぐにその視線の方を向くと、人形のように美しいクリスタが赤い眼で俺を見ていた。儚げな表情から禍々しい殺気なんて想像が出来ない。
彼女は金色の輝く髪に、クロエと同じ宝石のような赤い眼をした美しい女。
昔聞かされたアリアの特徴と一致するが、クリスタの眼は……赤だったか?
青い目のクリスタを思い出すと、急に頭の中をかき乱されたような感覚が襲った。本能的にこの部屋には居てはならないと、逃げるように部屋を出た。
頭が混乱する中で自室に戻ったが、気持ち悪さで何度か吐いた。自分で落ち着きを取り戻そうと、荒い息を整える。
どうやって入ったのか、リアムが俺に擦り寄って来た。心配なのか、俯いた俺の表情を確かめたくて、顔に濡れた鼻を近づける。
仕方なく顔を上げて、毛並みを優しく撫でてやると、少し心が落ち着いた。
自分が狂ってる事くらいわかっているのに、俺の頭の中を混乱させる何かがいる。
もう、何も考えたく無い。
目を閉じて、リアムを抱きしめながら、頭に浮かぶのはクロエの姿。
ただ、彼女に会いたいと想った。




