最終話
雲ひとつない、秋らしい青空が広がっている。
新華王国の副都の大通りには、金木犀の花が咲き誇り、路肩を黄金に染めていた。
芳しい花の香りが風に乗り、通りを運ばれていく。
華王国が、黒龍国に滅ぼされてはや八年。
現在は子豪が新華王国の国王として、この地を支配している。
子豪は没収した前王朝の財産を用いて、陶工や機織り工などの職業訓練所や、孤児院といった民のための施設を次々と建てた。
お陰で副都は今ではすっかり平穏さと活気を取り戻している。
コン、コン、と軽やかな音が通りに響く。
金木犀の花弁の絨毯の上を、木の杖が叩く音だ。
一人の中年の男が、杖をつきながら歩いていた。
かつての戦争で傷ついた足を少し引きずりながら。
男はふと歩みを止めた。
風に乗って微かに、音楽が聴こえてくる。
思わず目を細める。
(この音は、二胡? 誰かが近くで弾いているのか……?)
音のする方に、つられるように進む。
男はある一軒の邸の前まで導かれた。その中から二胡の音がするのだ。
邸の門の前では、二人の兄弟がきゃっきゃと声を立て、遊んでいる。
地面に散る金木犀の小さな花たちを、小さな兄弟が掻き集めては互いに頭から降らせて、はしゃぎ声を上げている。
二人の後ろには立派な門扉がたち、その先に二階建ての邸があった。
美しい二胡の音色が響いているのは、間違いなくその邸の中からだ。
弟は可愛らしい小さな手に木の碗を持ち、その中に金木犀の花をすくって入れる。それを碗ごと兄に差し出す。
「はい、お兄ちゃま。ご飯をどうじょ」
その碗の上に、大きな影が差す。
二人の兄弟はほぼ同時に顔を上げ、隣に立った杖をつく背の高い人物を見上げる。
目の前の偉丈夫な中年の男に、束の間見惚れる。
「誰?」
兄が尋ねると男は早口に逆に尋ねてきた。その口調はなぜか少し興奮している。
「君たち、この二胡は誰が弾いているか、知っているかい?」
「うん、知ってるよ。僕のお母しゃまが弾いてるんだよ」
「君たちの!? 教えてくれないか、お母さんの名前はなんていうの?」
「お母しゃまは、」
無邪気に答える弟の腕を兄が急に引く。
母の名を聞いてくるなど、怪しい。
「帰ろう」
弟を引っ張って門の中に入ろうとするが、男が素早く立ち塞がる。
「待ってくれ。名前を知りたいだけなんだよ」
「そこ、どいて!」
兄が大きな声を出したその時、男の肩に背後から手が掛けられた。慌てて振り向くと、そこには男を睨み上げる若い男がいた。
「失礼。私の子どもたちが、何か?」
恐ろしく顔の整った男だった。
中年の男は両手を広げ、手のひらを見せながら身の潔白を訴える。
「いや、怪しい者ではありません! ただ、この曲を弾いているのがどなたか知りたくて…」
「『白草原』をご存知なのですか?」
中年の男は大仰に頷いた。
「旧華王国の王族に伝わっていた、名曲ですとも。数えるほどですが、聴いたことがあります。――昔、今は亡き華王国の王宮に仕えていたことがありましたので」
「奇遇ですね。私も王宮に勤めておりました」
二人はやや緊張を緩め、微かに親しみを感じさせる笑みを浮かべた。
中年の男は門扉の背後にそびえる大きな邸を見上げてから、美貌の男に視線を戻す。
こんなに立派な邸を建てられるのだから、貴族に違いない。華王国時代の重鎮だろうか?
そんな想像をしていると、小さな弟が人懐こい笑顔で言った。
「お父しゃまは、昔王宮で下男をしていたんだよ」
「……下男?」
目を丸くすると、弟は若い父親の足に両手を回し、しがみつきながら頷いた、
「そうだよ。お母しゃまは王女だったんだよ」
「こら。うちのことを、ペラペラ話すものじゃない」
父親がそう注意すると弟はバツが悪そうに、顔をパッと父の袍に埋める。
中年男は杖を放り出し、父親に尋ねた。
「なんと、誠でしょうか? 私は三カ国による争いが終わった後、旧華王国のある王女様をお捜ししていたのです。ですが行方が分からず……」
王宮に勤めていた女官たちも離散してしまった。風の便りに、生き延びたらしいとは聞こえてきても、それ以上の情報が出てこない。
ふと中年男は父親の顔を見て、はてと心の中で首を傾げた。
どこかで、会ったことがある気がした。
(こんなに美しい男なら、そう忘れないはずだが)
思い切って一歩、親子に近づく。
「実は私の父は、華王国の近衛右将軍をしておりました」
「右将軍を?」
「はい。名を、楊 匡義と言いました。――私は楊 義明と申します」
義明の正面に立つ若い父親は、ゆるゆるとその漆黒の目を見開く。
「まさか……。本当に義明殿で?――私は貴方のお父様を、知っておりました。一度、清雅国へ同じ隊列で往復したことがあります」
義明の呼吸が次第に浅くなっていく。
分厚い胸板が、目に見えて上下している。
「あの。失礼ですが……貴方は?」
「蔡 俊熙と申します。春帝国の門下侍中をつとめております」
その名に聞き覚えはなかった。
寧ろ隣の大国の高級官吏だという点に、義明は驚愕した。
この国の官吏ではないのだから、この邸はさしづめ別邸、といったところか。
その胸の内を読み取りでもしたのか、俊熙が微笑を浮かべる。
「私たちはあの王宮にいたころ、ほとんど顔を合わせる機会がなかったかもしれません。ですが私は義明殿のことを、よく存じ上げております」
俊熙は下の子どもと右手を繋ぐと扉を開け、流れるような仕草でもう片方の腕を広げ、敷地内を指し示した。
「義明殿。どうぞ我が家へ。妻はもう長いこと貴方に会いたがっておりました。――妻は、貴方に助けてもらって、華王国の王宮から春帝国へ逃げ出せたのです」
義明の朧げな記憶が、微かに蘇る。
ああ、そうだ。
この男がもっともっと、若かった頃に王宮で見かけたことがある――義明は思い出しながら俊熙を見つめた。
あの王宮の日々は、遥か昔のことに思える。
俊熙がゆっくりと言った。
「私の妻は、李 詩月です。義明殿」
目の前に立つ俊熙をもっとよく見よう、と思うのにうまくいかない。
視界がぼやけて仕方がないのだ。
目に迫り上がる涙が、邪魔をする。
堪らず傍らの門に手を伸ばし、しがみつく。
「詩月様。ご無事でしたか……」
何か柔らかなものが義明の腕に伸ばされる。
涙を拭って視線を落とすと、俊熙の子どもが義明の腕に触れ、純粋そうな瞳を見開き、義明を見上げていた。
「どうしたの? なんで泣いているの?」
「……おじちゃんはね、君のお母様と会えるのが嬉しいんだ」
「そうなの? どうして?」
「ずっとお捜ししていたんだよ」
義明は俊熙の後について、彼の子どもに手を引かれ、邸の前庭を歩いた。
二胡の音が更に大きく聴こえる。
邸の庭から空を見上げ、義明は思い出す。
――王宮に戻れ。詩月様を、お守りしろ。
それが、右将軍だった父の最期の言葉だった。
自分は父との約束を守ることができたのだ。
「詩月様。――詩月様!」
玄関に入った俊熙が、大きな声で自分の妻を呼ぶ。
義明は一瞬、呆気にとられた。この男は自分の妻を「様」付けで呼んでいるのか、と小さな笑いが込み上げる。
詩月は裏庭に面した部屋に座り、二胡を弾いていた。
白草原をこの地で弾くのは、感慨深い。
毎年一週間はこの地に帰り、兄と両親の陵墓を訪れている。
今はもう生活基盤がすっかり春帝国の帝都に出来上がり、子育てに仕事に急がしくしている。兄のことを思い出して、泣いてばかりいた日々も、やんちゃな男の子二人のお陰で、その隙もなくなった。
女官として復帰したかった詩月だったが、人生とは分からぬもので、今は春帝国の皇帝の子どもたちの二胡の師として、彼等に演奏を教えている。
そしてそれはそれで楽しんでいる自分がいる。
自分のこれまでの人生を振り返ると、激動だったと思う。
ふぅっ、とゆっくりと息を吐きながら白草原を弾き終えると、廊下から駆けてくる足音がした。
「詩月様、大変です」
部屋に俊熙が入ってきて、詩月のすぐそばに膝をつく。
「今、玄関に凄いかたがいらしています」
「何? 誰?」
「匡義様のご子息の、義明様です」
息を呑む詩月に俊熙が手を貸し、立ち上がらせる。
「本当なの? 本物の義明なの?」
突然のことに困惑した詩月は、俊熙に繰り返しそう尋ね、玄関に向かう。
玄関に立つその人物は、詩月と目が合うなり、驚きのあまり短く叫んだ。詩月の記憶の中にあるよりずっと頭髪が白くなってはいたが、豪胆な声と体格は変わらない。
詩月は驚きに掠れた声で、呟いた。
「義明……」
玄関で自分を見つめ返しているのは間違いなく、義明だ。
彼も目を見開き、泣き笑いのような何とも言えない表情で詩月を見ている。
――何から話そうか。
話したいことは、たくさんあった。
詩月が華王国を出て行ってから――つまり、二人が別れてからの話をしなければならない。
とても長くなりそうだ。
お互い、あの日火に包まれた華王国の離宮のそばで別れ、またこうしてほんの少しのこの距離に至るまでに、どれほどたくさんの山々を越えて来たのだろう。
義明は胸の前で手を組むと、頭を下げて深くお辞儀をした。
「詩月様。お元気そうなお姿を拝見でき、感無量にございます」
「貴方のお陰よ。――今は春帝国で暮らしているの」
義明はついに嗚咽した。
「これで父に、親孝行な息子だったと胸を張ることができます」
廊下の先を行く幼い兄弟が、華奢な飾り格子がついた扉を開け、応接間の方へ詩月と義明を誘う。
二人の息子の様子を見て、詩月はふと今は亡き自分の父母を想った。
「――私は……あまり孝行娘ではなかったかもしれないわ」
華王国の国王を悩ませた子豪に、新華王国の初代国王となることを勧めた。それに自分は子豪に膝をついた初めての王族だっただろう。
詩月が寂しく苦笑すると、対する義明はにっこりと笑った。
「それはきっと、違いますとも。詩月様が今お幸せであることが、一番の孝行なのですから」
詩月は一瞬押し黙り、直後に破顔一笑した。
「それなら私は、物凄い孝行娘に違いないわ」
天真爛漫なその笑顔が眩しい。
詩月が多くを語る前から近況が察せられ、義明は心から安堵する。
今の彼女を取り巻く世界は、とても優しいのだろう。
詩月が少し遠慮がちに、口を開く。
「貴方は一時黒龍国に捕らえられていたと聞いたのだけれど…」
義明は玄関にちらりと視線を走らせる。そこには穏やかな表情で交互に詩月と自分を見つめている俊熙がいた。再び詩月と目を合わせると、義明は悪戯っぽく言った。
「はい。――ですがまずは詩月様のお話を伺いたいところです。……とくに、かつての下男どのと一体どんな紆余曲折があって、今のお二人があるのかを」
一瞬の間の後で、詩月と義明は豪快に笑った。
「西州で黒龍国兵に追われたあの日、あの後何があったのです?」
詩月は少し考え込んだ後で照れたように、肩をすくめる。
「私ね、山の中で宦官に拾われたのよ」
目を白黒する義明を応接間へと手招きしながら、詩月はまた廊下を歩きはじめた。
完




