14 白い子犬はからかう(前編)
莉緒の見合い話のその後を描いた、犬神・ショコラ(待雪)目線のお話です。
場所は、駅近くにある大きな老舗ホテル。
二階のラウンジにある高級そうなカフェは、有名ショコラティエが作り出すチョコスイーツが食べられると、有名なところらしい。ホットチョコレートも名物だそうだ。
漂ってくるチョコの甘い匂いに、ふりふりとしっぽを揺らしながら、僕は店内を進んだ。
ふかふかで足触りの良い、緑色の地に白い花が描かれた絨毯に肉球が埋まる。本来なら、四つ足の獣は入れない場所であるが、僕を咎める者はいない。
莉緒のコートを預かった店員も、予約席まで案内する店員も、僕には目を止めもしない。まあ、犬神の姿は普通の人間には見えないのだから仕方ない。
隣の莉緒を見上げれば、緊張した面持ちだった。髪をハーフアップでまとめて、シンプルで上品なワンピースを纏う彼女は、いつもと少し雰囲気が違う。奈緒に似てるね、と言ったら怒るだろうから、言わないでおく。
今日行われるのは、見合いの仕切り直し……脱走騒動で迷惑をかけた見合い相手への謝罪も兼ねた、再度の顔合わせだ。
ただ、今回は家族ぐるみではなく本人達だけで、という話になったらしい。なので、莉緒は一人で(僕が同伴しているけど)、このカフェに来たわけだ。
柄にもなく緊張している莉緒の脚に、僕は身体を寄せる。莉緒ははっとしたように足を止めて僕の方を見ると、強張っていた顔を少し緩めた。
ありがとう、と小さく呟く声が僕の耳に届く。どういたしまして、というようにしっぽを軽く振ってみせて、僕らは歩を進めた。
案内されたのは個室だった。
入口にドアは無いけれど、衝立が立てられて中が見えないようになっている。奥側の壁は緑の綺麗な庭を一望できる大きな窓があり、窓のすぐ横には四角いテーブルが置かれ、すでに先客が待っていた。
先客は僕らに気づくと、急いで席を立った。勢いが良すぎて、ガタンとソファーがずれる。脚にソファーの肘当てが当たって、ちょっと痛そうだった。
先客は、若い男だ。黒い短髪に銀縁眼鏡。細身ながらがっちりとした身体に、かっちりとした灰色のスーツを着ていた。一重の目に、少し厳ついけれども整った顔。凛々しく引き結ばれた唇と真っすぐな眼差しが、生真面目そうな性格を表している。
だけど、ぶつかった脚が痛いのか若干涙目になっていた。微妙に残念な雰囲気を醸し出している。
冷静に観察する僕と違い、莉緒は男と同様に緊張をまとって、背筋を伸ばした。意を決したように男の方へと進み出て、頭を下げる。
「柏原さん、先日は申し訳――」
「大変申し訳ありませんでした!!」
莉緒の声に重なって響いたのは、男の大きな声。
思わず僕も莉緒も固まる。
男は莉緒に負けないくらい深々と頭を下げていた。びしっ、と音がしそうな最敬礼……いや、腰からしっかりと折り曲げて、背中が見えるくらいの角度の礼だ。
男は頭を下げたまま、言葉を続ける。
「先日は失礼なことを言い、あなたと待雪さんに不快な思いをさせてしまい傷つけてしまったこと、誠に申し訳ありません!」
「え、いえ、あの……」
「本日、再びお会いし謝罪する機会を頂き、誠にかたじけなく、有難く思っておりますっ」
「……」
どこの営業マンだ、と突っ込みたくなるような光景だ。
呆気にとられていた僕らだったが、莉緒が先に我に返って、慌てて頭を下げなおす。
「いえ、私こそ、先日は失礼な態度を取り、勝手に退席してしまって申し訳ありません」
「いえっ、それは私が失礼なことを言ったからでして!」
「いえ、私の方がむしろ失礼なことを……」
「いえ、私の言動のせいで……」
と、“いえいえ”を繰り返す莉緒と男を、僕は足元で交互に見やる。埒が明かないので、僕は二人の間で「わうっ」と吠えてみせた。
すると、頭を下げていた男がびくっと身を跳ねさせる。
おや、と僕は男を見上げた。眼鏡の奥の一重の目と、目が合う。
真面目そうな顔つきの、焦げ茶色の目に宿るのは――
……んん?
あれ、もしかして……?
僕は念のため、もう一度、男に向かって「わんっ」と吠えてみせた。ついでに牙も剥いてみせる。
すると――
「ひゃあっ」
と幾分高い声で叫んだ男は、ばね仕掛けの人形のように飛び上がり、すぐ後ろのソファーに思いっきり膝裏をぶつけ、勢いのまま派手に転んでしまった。
「うわっ!?」
「かっ、柏原さん!?」
大丈夫ですか?と駆け寄る莉緒の後ろで、僕は「なるほどね」と独り言ちながら、後ろ足で耳をかしかしと掻いた。
この男、柏原慎は、どうやら僕のことを怖がっているようだ。
*****
柏原慎。
犬神筋の中枢である大神本家……ではなく、その分家の一つ、柏原家の長男。でありながら、姉二人を持つ三姉弟の末っ子らしい。莉緒より二つ年上の、二十三歳。昨年大学を出て、今は大神本家が営む会社の一つに勤めている。
見合い写真に添えられたプロフィールを思い出しながら、僕は柏原を見やった。
身を起こした柏原は、差し伸べられた莉緒の手を「いえっ、そんな、滅相もないっ」と顔を真っ赤にして断っている。
……へえ、莉緒の手が取れないって言うのか、この野郎。
ぐぅぅ、とめいっぱい凶悪な顔をして(あんまり怖くないと莉緒に言われるけど)唸ってみせると、柏原はひっと身を竦ませた。
「ショコラ、やめなさい。……すみません、柏原さん。この子はあなたに危害を加えたりはしませんから、安心して下さい」
僕を窘める莉緒もまた、柏原がどうして転んだのか、そしてどうして怯えているのか、わかったらしい。謝りながら、柏原の傍らに屈み込んで目線を合わせる。
柏原はと言えば、ずれた眼鏡を直しながら、申し訳なさそうに項垂れていた。
「す、すみません……その、実は、私……い、犬が、苦手でして……」
最初の大声が嘘のようなか細い声で、床に正座した状態で柏原は謝ってきた。




