13 閑話 彼と彼女と、犬神と一番と
「白い犬神と甘酒と約束」のその後の話です。
夏貴目線の話になっています。
風呂から上がって自室に戻ると、窓の側に置いてある二人掛けのソファーに腰かけていた妻――奈緒が顔を上げる。
見上げてくる視線がやや険しいのは、気のせいではあるまい。気にしないように……としても、多少は傷つくものである。
何しろ、帰宅直後から散々な目に遭っている。
犬神の吹雪が泣いたことで、妻からは責められ、子供たちからは怒られ追いかけられた。小さな子供たちから追いかけ回されるのはなかなか楽しかったが、その後、一緒に風呂に入るのを拒否されてしまい、地味にダメージを受けたものだ。
仕事に忙殺され心が荒む日々、愛しい子供たちとのコミュニケーションが取れないのは寂しい。
もっとも、それを顔に出すことはなく、何事もなかったように僕は軽い口調で尋ねた。
「吹雪は?」
「子供たちの部屋よ。一緒に寝るって、沙織も瑞貴も聞かなくて」
奈緒が肩を竦めて答える。
いつも姉のように母のように、側にいて世話を焼く吹雪に、子供たちはとても懐いている。だから、突然泣き出した彼女にかなり動揺していた。弟の瑞貴の方は、僕を追いかけ回している途中で転び、わんわん泣き出して、逆に吹雪に慰められていたくらいだ。
今は二人とも落ち着き、吹雪を真ん中に挟んで一緒に寝ていると、奈緒が教えてくれた。
「そっか。いいなあ、吹雪は。羨ましい」
言いながら奈緒の隣に腰かければ、隣から呆れた目線が寄こされる。
「あのねぇ、そもそもあなたが吹雪を苛めるのが悪いんでしょう?」
「別に苛めてないよ。本当のことを言ってあげただけさ」
嘯いてみせると、奈緒は大きく溜息を吐いた。
「もう、何でそう吹雪に意地悪するのよ。あなたの犬神なのよ?もう少し優しくしてあげたら……」
「僕の犬神じゃないよ」
さらりと返すと、奈緒が目を瞬かせる。真顔になる妻を見て、僕は口の端を上げた。
「今でも、吹雪は君の犬神だ。君のことを一番に想っている。……君の一番だって、吹雪だろう?」
そうだろう?と微笑んで見せれば、勝気な瞳がわずかに伏せられる。
その少し気まずそうな目は、それこそ彼女の犬神の吹雪にそっくりだった。
白瀬の娘を妻にした男たちは、彼女の一番になれることはない。
彼女たちの心には、すでに特別な存在が棲みついているからだ。
生まれたときから、いや、生まれる前から深く結びついた魂の片割れ。娘は犬神を慈しみ、犬神は娘を慕う。
それはまるで“刷り込み”であり、“呪い”のようだと思う。
もともとは山犬――神気の集まる山の主であった、気高き山犬を祖としているせいだろう。人間に懐くことの無い彼らを、白瀬の家はその血に取り込んだ。そして愛情を注いで育てることで、人間に慣れさせて仕えさせた。
善意と愛情を詰め込まれた、清らかで情の深い、力の強い犬神。
その犬神を目的に白瀬の娘を娶るのだから、一番がどうのこうのと文句を言えるはずもない。
なのに。
僕は、吹雪を羨ましく思った。
正直、自分にこんな子供じみた感情があるなんて意外だった。
結婚する前はもっと上手く割り切れると思っていた。むしろ、より力の強い犬神――雪尾が欲しくて、奈緒の妹の未緒に近づこうかと考えていたくらいだ。
だけど、奈緒や吹雪と共にいると、だんだんと複雑な感情が生まれてくる。
まるで、犬神に注がれた情が、こちらにまで滲んできているように。
侵されて、それでもなお足りないと、求めるようになる。
彼女たちの“呪い”に、いつの間にか僕の方が囚われてしまったみたいに。
だから、偶に吹雪に当たってしまう。
奈緒に一番に想われる彼女に、焼きもちを妬いてしまう。
「……僕は、吹雪が羨ましいよ」
ぽつりと呟けば、ふいに視界が陰った。いつの間にか立ち上がった奈緒が僕の前に立ち、顔の方へと手を伸ばしてくる。
「奈緒――っ」
呼びかけた途端、ばちっと額で何かが弾けた。目の奥がちかりと眩むほどの衝撃に、僕はソファーの背もたれ伝いにずるずると倒れ込み、額を押さえて呻く。
「……相変わらず、君のデコピンは強烈だよね……」
ずきずきと痛む頭を押さえて奈緒を見上げれば、どこか怒った顔の彼女が見下ろしてくる。
「……私の一番を、あなたにあげたわ」
「え?」
「家のためだったとはいえ、私の一番大切な、私の犬神を、あなたになら渡してもいいと思ったのよ」
ぽかんと口を開けて見上げる僕の顔に、奈緒が指を突き付けてきた。
「それがどういうことか、あなた、ちゃんとわかっている?」
「……」
怒った顔のまま、奈緒は乱暴に僕の隣に座る。どさりと振動が伝わってくる。
「もう、馬鹿じゃないの。なんでそんなに吹雪のことを気にするのよ。犬神に焼きもち妬いてどうするんだか」
「……だって君、吹雪には激甘じゃないか。ほら、僕が吹雪に毎回甘酒奢っていること知っているけど偶にしか怒らなかったり、実は吹雪用に甘酒の缶を大量に買ってこっそり押し入れの奥に隠しているけど渡せずじまいで結局自分で飲んでいたりとかさ」
「……何で知っているのよ」
やや頬を赤らめて睨みつけてくる奈緒に、僕はくすりと笑みを零した。
「今度、吹雪に甘酒の缶のこと教えてあげようか?」
「……別にいいわよ。そしたら堂々と吹雪に甘酒あげられるもの」
奈緒が開き直ったようにあっさりと言うものだから、面白くない。
いつものツンデレのデレはどうした。怒りながら照れる姿を見たかったのに。ぶーぶーと文句を垂れると、奈緒が心底呆れたというように横目で見てくる。
「私も子供たちの部屋で寝ようかしら」
「すみません、僕が悪かったのでここに居てください」
素早く謝って奈緒の手首を掴むと、「冗談よ」と苦笑された。
なので、せっかくだからとその手の細い指に自分の指を絡めて、引き寄せる。訝しむ彼女に囁いてみせる。
「僕の側にいてよ、奈緒」
「……ちょっと何なの本当に!今日はどうしたの!?」
奈緒が頬を染めて怒鳴る。
見たい顔が見れたと、僕は笑う。
……きっと、こんな風に照れて怒鳴る姿なんて、吹雪は見たことが無いだろう。
いつだって強く賢く、頼れる母のように優しい姉のように、奈緒は吹雪に接しているのだから。
この顔はきっと、僕だけのもの。
彼女と肩を並べ、これからも共に歩き続ける、僕のもの。
彼女が一番大切に想っている相手にはなれなくても。
僕は、彼女の一番大切なものをもらった。
それがどういう意味かなんて、いちいち口に出す必要もない。
……まあ、それでも吹雪にはやっぱり妬けるし、真面目な彼女をからかって反応を見るのは楽しいから、これからも意地悪はやめられないだろう。
奈緒に叱られないように(叱る姿も好きだけど)、程々に吹雪をいじってやろうと、僕は内心でほくそ笑んだ。




