09 白い狼と眼鏡の彼女(後編)
朝日に照らされた新雪のような白い毛並み。
冬の夜に輝くシリウスのような青い眼差し。
神々しい、白い犬神。
いた。
見つけた。
幻じゃなくて、本当に。
やっと、会えた。
「あの」
気分が高揚し、思わず声をかけようとすれば、犬はぴくっと耳を震わせた。
そして――
逃げた。
「……え?」
翻った白いしっぽが、棚の奥の通路へと消える。
慌てて追いかけて、通路を左右見回してみたが、すでに犬の姿は無かった。俺は狐につままれたような気分で、しばし立ち尽くしたのだった。
**********
諦めたわけではない。
それから一か月、講義やバイトが無い日は図書館に通い続けた。
もちろん、犬神を探すだけでなく勉強もしている。本文は学生だ。大学に通わせてもらい学べる環境にある分、やるべきことはやる。
とはいえ、犬神に会えるかもと少々浮ついている自覚はあった。だから気持ちを切り替えて勉強に集中し、集中が切れた時だけ館内を歩きまわって白い影を探すようにした。
幸運なことに、三回も遭遇することができた。
そして不運なことに、三回とも逃げられた。
こちらに気づくと、なぜか犬神は逃げてしまうのだ。
あの大きな図体はどこに隠したというほど、ぱたりとその日は姿を見せない。だが、また別の日にいくと見ることはできる。
遭遇率が高いことから、犬神は図書館に棲みついている、あるいは犬神を使役する人間が図書館の利用者か職員なのだろうと見当が付いた。
見当は付いたが、犬神に声を掛ける所までいけない。
なぜ逃げる、と疑問に思いながらも少し落ち込む。
今日も四回目の遭遇を果たしたが逃げられて、溜息交じりに勉強を再開していたときだ。
ふと何かの視線を感じた。
目線だけで周囲を見やれば、本棚の端から白いものがはみ出ている。
「……」
視線の主は、犬神だった。
顔を半分だけ出して、青い目でじーっとこちらを見ている。
俺と目が合うと、犬神はぱっと棚の後ろに隠れてしまった。だが、しばらくするとそろりと顔を出す。席を立って近づこうとすれば、ぴっと耳を動かして逃げてしまう。
「何なんだ、一体…」
疑問は、それからしばらく続くことになった。
本棚の後ろ。本棚の上。椅子の下。ソファの背もたれ。
気づけば白い犬神は、物陰に隠れながらも(身体が大きくてあまり隠れていないのだが)俺をじっと見つめている。
一度、本棚から本を取り出していたとき、奥にでかい犬の顔があって声を上げそうになったものだ。あれはびびる。
どうやら犬神も、俺に興味を持っているらしい。
警戒しつつも興味津々といった態度は、人見知りの子供が親の影に隠れながら窺っているようで、少し微笑ましい。というか、可愛い。
最初に見たあの神々しさはどこいったと思うときもあるが、畏怖の感情に少しずつ親しみが混じってくる。
それが解って以来、必要以上に犬神に近づくのを控えた。
無理やり近づけば逃げていくだけだ。むしろこっちが悠然と構えていれば、犬神の方から近寄ってくるようになった。
気長に、ゆっくりと。
強烈に焼き付いて特別だった存在が、次第に身近になっていく。
だからといって、つまらなくはならない。
少しずつ縮まっていく距離が嬉しい。
距離が一気に縮まったのは、それから数か月経った春の初めの頃だった。
**********
無事に進級が確定し、穏やかな春季休暇を迎えていた。
講習も終わり、俺は図書館で課題をしていた。売店でパンと牛乳を買い、図書館前にある広場の東屋の一つで昼食をとろうとしたときだ。
少し離れた木陰に、白い大きな犬が寝そべっているのに気づいた。前脚に頭を乗せ、うとうとと微睡んでいるように見える。
気持ちよさそうな犬神の姿に、口元を綻ばせながら東屋のベンチに座った。パンを齧り、牛乳のパックを開けようとした時だ。
またもや視線を感じて横を見れば、さっきまで寝ていた犬神が数メートル離れた先にいた。お座りした状態でこちらを見ている。
「ええと…?」
首を傾げながら、犬神の視線を辿った。青い目は俺の顔じゃなくて、手元を見ているような気がする。
右手を動かせば、青い目がすいっとそれを追う。
右手、じゃない。牛乳だろうか。
牛乳のパックを逆の手に持ち帰ると、犬神の視線は左手に移った。
「もしかして、牛乳が好き、とか?」
試しに牛乳のパックを犬神の方へと差し出してみれば、白いしっぽが抑えきれずに、しぱたしぱたと地面を叩いた。喜んでいる。
だが、犬神ははたとしっぽを止めて、窺うように首を傾げて見てきた。遠慮がちな視線に、俺はふっと微笑む。
「……あげます」
牛乳パックを差し出しながら、言葉を続ける。
「あなたは覚えていないかもしれないけど、前に助けてもらったことがあるんです。あのときは、ありがとうございました。これはお礼です」
受け取って下さいと言えば、犬神はしばらく俺を見つめた後、そろそろと近づいてきた。
パックを持った手に、大きな鼻先を摺り寄せてすんすんと匂いを嗅ぐ。そして、牛乳パックを大きな口でぱくりと咥えた。
とっとっとっ、と数歩離れた後、犬神は振り返ってぱたりとしっぽを振ってみせる。
「……」
ああもう、何か本当に、いいなぁ。
大きくて、力があって、怖いくらいに綺麗で強いのに。
無邪気で、人見知りで、子供みたいで、可愛くて。
助けてくれた犬神だからじゃない。純粋にあの白い犬が好きになっていた。
お礼は言えて当初の目的は果たせたが、俺はそれからも図書館通いを止めることは無かった。
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そのあと、犬神の飼い主が図書館の職員で、しかも児童コーナーで話しかけてきた女性だったってことがわかりましたけど、それはまた今度話しますね。
…あの、気にしないで下さいね、それ合せて数回しか話したことないし、覚えて無くても仕方ないですから。
とりあえず、俺と雪尾さんの馴れ初めは、こんな感じです。
そう締めくくると、眼鏡の彼女は「一年も前…!しかも私から話しかけたのに…」と顔を真っ赤にして何とも申し訳なさそうにしたのだった。