07 白い犬とあなたと、白い星(中編)
ぱぁん、と遠くで花火が鳴る音が聞こえた。
沈んでいた意識が引き上げられる。気づけば肌に触れる風は冷たくなっており、東屋の下の影に寒さを感じて身じろぎした。
どうやら、あれから机に突っ伏して本格的に寝入っていたようだ。少しだけのはずだったのに、今はいったい何時だろう。まだ明るいようだけれども。
うっすらと開いた目に、俺のすぐ側で丸まって眠る白い子犬の姿が映る。いつの間に机の上にあがってきたのだろうか。白い柔らかそうな丸い腹が、目の前で規則的に上下しているのが見えた。
枕にしていた腕の痺れと、同じ姿勢でいたために強張った肩の痛みに俺が呻けば、近くで「あっ」と小さな声が上がる。
慌てて頭を上げて声の方を見やれば、寝起きでぼやけた視界に黒髪の女性の顔が映った。
「よかった、起きたんですね」
ほっとしたように眼鏡の奥の目が柔らかく細められる。
出会った頃より少し伸びた髪を揺らし、緑のエプロンを身に着けた小柄な女性は、白瀬さんだった。
「しらせさん……?」
「はい。おはようございます、高階君」
寝ぼけて舌足らずな発音の俺に、くすりと笑った白瀬さんは、次いで苦笑を見せた。
「すみません。もうすぐ閉館時間なので、起こしに来ました」
「え?……あっ!」
携帯電話の時刻を確認すれば、確かに閉館時間の十五分前であった。俺がわたわたと身を起こし、涎は出てないよなと密かに確認していれば、雪尾さんも起きたようだ。
鼻をふんふんと動かして、三角の耳をぴっと立てた。そうして目をぱっちり開いたかと思えば、白瀬さんを見て小さなしっぽを全力で振る。
地面に飛び降りて白瀬さんの足元を回り始めた雪尾さんを目で追いかけていれば、ふふっと彼女が笑い出した。
「もしかして、雪尾も一緒に寝ていました?それで、今は起きて私の足元にいる……とか」
「え、どうしてわかって……」
「何となく、高階君の目線と表情で、そうかなって思いました」
白瀬さんは笑顔でさらりと言うが、俺としてはそんなに顔に出ていたのかと恥ずかしくなる。
赤くなりそうな顔を隠しながら、ふと思ったのは、俺が雪尾さんを見ることができるから、白瀬さんも雪尾さんの動きを把握できているんだ、ということだ。
見えること、見えないこと……と、また考えそうになる自分は、本当に重症だ。
顔を隠したまま、息をついて肩を落とせば「大丈夫ですか?」と声がかかった。顔を上げると、白瀬さんが心配そうに顔を曇らせている。
「体調が悪いんじゃ……」
「あ、いえ、全然大丈夫です。すみません、寝起きでちょっと、ぼーっとしてただけですよ」
笑ってみせたが、白瀬さんの表情は晴れない。俺はごまかすように、「そういえば」と話を変えた。
「さっき花火みたいな音が聞こえたんですけど、今日って何かあるんですか?」
「え?ああ、それなら、近くの神社で夏祭りがあるから、そのお知らせの花火ですよ」
そう言われて、去年も一昨年もこの時期に祭りがあったことを思い出す。最近は考え事に気を取られていたので、すっかり俺の記憶から抜けていたのだ。図書館のロビーの連絡版にも祭りのポスターが張り出されているらしく、むしろ俺が知らなかったことが、白瀬さんは意外だったようだ。
少し考えるように俯いた後、彼女は意を決したように顔を上げた。
「あの……よかったら、一緒に祭りに行きませんか?その、今日の帰りに、寄ってみようと思っていたんです」
「え……」
「屋台も出るし、花火も少しだけど上がるし……あ、でも、体調が良かったらで、その……」
次第にすぼんでいく白瀬さんの声に、俺は反射的に「行きます」と答えていた。
*****
結局、一度帰ってから白瀬さんと待ち合わせる形になった。
勉強道具の入ったショルダーバッグを部屋に放り込み準備をしていれば、何も話していないのに、伯父さんが「気を付けて行ってきなさい」と小遣いをくれた。
Tシャツにジーンズ、そしてフード付きの薄手のパーカーを羽織って家を出る。
神社の階段下にある広場が待ち合わせ場所であったが、祭りの開始時刻を過ぎているため、すでに人が多かった。目立つようにと鳥居の下に立って辺りを見回していれば、向こうの方が気づいて駆け寄ってくる。
「すみません、お待たせしました」
「いえ、俺も今来たところです」
答えながら、こんなやり取りを前にもしたなと、以前一緒に映画を観に行ったことを思い出した。
白瀬さんは、淡い水色のワンピースに白いカーディガンを羽織り、伸びた髪を白いレースのシュシュでまとめていた。耳にはパールのイヤリングを付けて、いつもよりも女性らしい装いに少しどきりとする。
何だかデートみたいだと思うと急に恥ずかしくなったが、そんな俺と白瀬さんの間に白い小さな塊が入り込んできた。俺の顔を見上げて、存在を主張するように短いしっぽをばしばしと脚に当ててくるのは、もちろん雪尾さんだ。
俺はしゃがみこんで、その鼻先に向かって指を立ててみせた。
「雪尾さん、今日はミルク味のかき氷食べましょう。おごりますよ」
途端、雪尾さんは叩くのを止めて、きらっと青い目を期待に輝かせたのだった。




