05 白いカフェオレと、俺の心
俺がふたりに会えたのは、この“目”があったからだ。
ふたりの側にいれたのは、見えないモノが見える目が、あったからなんだ――
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「恵?」
梅雨に入った六月後半。
窓の外は今日も雨で、空調を調節していてもじめじめとした湿気が滲んでくるような夕方だ。テーブルを拭き終わり、濡れた窓の外をぼんやりと見ていた俺に声を掛けてきたのは、伯父の章良だった。
「片付けが終わったら、こっちを手伝ってくれるかい」
「あ、うん、わかった」
今日は休日にもかかわらず、朝から強い雨が降っているせいか、客足はいつもより少ない。
常連の老夫婦も先ほど帰り、今はテーブル席の一つで文庫本を読む男性が一人だけだ。
カウンターの中に戻り、溜まった洗い物をしていれば、伯父がコーヒー豆を挽き始めた。注文も無いのに何故だろうと思っていれば、伯父はこそりと囁く。
「豆を余分に出してしまったんだ。湿気て味が落ちるのもなんだし、使ってしまおうと思ってね。せっかくだから、恵、淹れてみるかい?」
たまには練習をね、と悪戯っぽく笑んだ伯父は、ゆっくりとミルのハンドルを回す。挽くごとに、コーヒーの香りが強くなっていく。
慣れた手つきでハンドルを回す手元を見ていれば、ふいに伯父が口を開く。
「勉強の方は大丈夫かい?」
「え……」
「大学で研究室に入ったんだろう?課題で忙しくなるかもって、言っていたじゃないか」
三年生に上がって、プレゼミで研究室に入った。そこがまた結構厳しい教授であり、一、二年生の頃よりも確かに忙しくなっている。まだ実際に研究したり実験したりするわけではなかったが、研究に関連する論文を探したり和訳したりと、勉強することが増えたのだ。それに加えて、就職か進学か、今後の進路も考えなくてはならない。
少しずつ生活の流れが変わっていく中、伯父の店のバイトにばかり出るわけにはいかなくもなり、調整していく必要が出てくるだろう。
「ああ、うん。今度からバイトのシフト、少し減らしてもらうかもしれない。予定が決まったら、早めに相談するよ」
「そうだね。……それから、近頃、あまり図書館に行ってないようだけど?」
「そ……そんなことないよ。今は研究室の課題するのに大学の図書館の方が便利なんだ。専門書とか論文とか多いから、そっちを利用することが多くなってるだけで……」
気づかれていたのか。伯父の言葉に、俺は内心でぎくりとした。
確かに、以前は白瀬さんが勤める市立図書館に週に二回は顔を出していた。しかし今は、週に一回程度だ。
別にやましいことはないのに、言い訳しているような気持ちになってしまう。すると伯父は、くすりと苦笑を浮かべた。
「恵、僕は“市立”図書館とは言っていないよ」
「あっ……」
「ちゃんと自覚はあるんだね」
伯父には全てお見通しのようだ。苦虫を噛み潰したような表情をする俺に、伯父は柔らかな口調のまま尋ねてくる。
「この間、白瀬さんのお兄さんに言われたことを、気にしているのかい?」
『雪尾が見えなくなっても、君は未緒の側にいれるか?』
伯父の台詞に、達央さんの台詞が重なった。
――ひと月程前の、達央さんとの邂逅以来、俺は落ち着かない日々を送っていた。
市立図書館に行って、白瀬さんや雪尾さんに会うと、心の中が苦しくなる。
ふたりに対する気持ちは変わっていないはずだ。小さい体で活発に書棚によじ登ったり、階段を跳ね降りたりする雪尾さんを見ていると思わず笑みが零れるし、こちらに気づいてはにかんで会釈する白瀬さんを見ていると、気恥ずかしくも胸が温かくなる。
それなのに、温かな気持ちはいつの間にか胸に重く溜まり、息苦しさを訴えてくる。後ろめたさに引きずられて、笑みは固くなる。
二人に顔を合わせることが気づけば苦しくなって、自然と足が遠のいた。大学の方が忙しくなったせいだと言い訳を付けて、逃げるように勉強とバイトに意識を向けた。
自分が、これからどうするべきなのか。どうしたいのか――。
未だに答えの見つからない問いを、押し隠すように。
黙り込んだ俺に、伯父はそれ以上問いかけることはしない。
豆を挽き終わった伯父が、「淹れるかい?」と尋ねてくる。無意識に頷いて、サーバーにドリッパー、それに紙のフィルターをセットする。湯通しした後、中挽きにされたコーヒー粉を計量して入れて、表面を均す。
沸いたお湯を細く、粉の中心から円を描くように注いでいけば、表面が膨らんで香りが一層強まった。上がってくる白い湯気に、熱に、視界がぼやける。
「……伯父さん」
「何だい?」
「もし、俺が“見る”ことができなくなったら……どうすればいいのかな」
ぽつりと問いかけた声に、伯父は柔らかく尋ね返してくる。
「恵は、どうしたいんだい?」
「……わからないんだ。ふたりの側にいたいけど、見れなくなったら、俺は……」
「恵が見ることができなくなったら、側にいたらいけないのかな?」
「え…?」
「白瀬さんも雪尾君も、恵が見ることができなくなったら、あっさり縁を切っちゃうような薄情な子達だって、恵は思っているんだね?」
眼鏡の奥の目が、じっと見つめてくる。俺は咄嗟に首を横に振った。
「違う。そんなことない」
「だったら、どうして側にいられないなんて思ったんだい?」
「だって……役に立てないじゃないか。見れなくなったら、俺はふたりに何もしてあげられない……!」
ずっとずっと、煩わしかった目。見えないモノが見えてしまう力。
この“目”があってよかったと思えたのは、あのふたりのおかげだ。
見えるから、あのふたりに出会えた。
見えるから、あのふたりの役に立てている。
それが、とても嬉しかった。
これからも、ふたりの側にいる理由がほしい。
ふたりにとって、自分は必要な人間なのだと思いたい。
ふたりの役に立っているのだと実感したい。
見えなくなったら、役に立たなくなったら――
ふたりの側にいる理由が無くなってしまうような気がした。
「ふたりの役に立てなくなるのが……俺が、嫌なんだ」
ふいに自分の本心を覗いてしまって、愕然とした。
見えることを理由にして、見えないふたりの間にいることを当然と思っていた自分がいた。見える力があるから、何かできるんじゃないかと――俺が何かしてあげなくてはと。きっと、自惚れにも似たような思いで。
……そんな思いを、もしかしたら、達央さんは気づいていたのだろうか。
“ふたりのため”じゃなくて俺自身のための選択をしてくれと言ったのは、俺自身がどうしたいのかを考えさせるためだったのか。
“見えるから”という理由が無くなっても、ふたりの側にいられるか。力の無くなった自分自身に、耐えられるかどうか。
「……」
ぎゅっと唇を噛み締めていれば、伯父が俺の手からポットをゆっくりと取り上げる。
気づけばコーヒーは蒸らしの時間をとうに過ぎていた。伯父は「はい、不合格」と言いながら、蒸らしすぎた粉の上に、静かにお湯を注いでいく。
薄れた香りが広がり、黒に近い焦げ茶色の液体が、ぽたりぽたりとサーバーに落ちていく。
「……気にしているのは、恵だけじゃないのかな。白瀬さんも雪尾君も、きっと気にしないよ。そういう子達だって、恵が一番、解っているんだろう?」
ぽたり、と伯父の声が心の中に落ちて、染みるように広がる。
「小さな自尊心なんて、重いだけだよ。捨てられるものは、捨ててしまいなさい。拾えるものも、大事なものも、持てなくなってしまうよ」
「……」
「好きな人の側にいるのに、理由が欲しいかい?……側にいたいって、それだけじゃ駄目かい?」
ぽたり、と俺の頬から流れる雫を、伯父は見て見ぬふりをする。
そうして淹れ終えたコーヒーサーバーをゆっくりと回した。
「……さて、あまり美味しくないだろうから、牛乳でも入れようかな。とっておきの、雪尾君用のが残っていたはずだから。たまにはカフェオレもいいだろう」
伯父の入れたカフェオレは甘くて、白くて――俺の心に溜まっていた澱を、緩やかに流していった。




