04 キジトラ君と白い犬神(後編)
「いっつつ……。白姫の奴、本気で叩いたな……」
カウンター席に座った達央さんが、腰の後ろを摩りながら呻った。
先ほど白姫さんの大きなしっぽで強かに打たれた箇所だ。大の男がよろめいてしまう衝撃は、側で見ていて痛そうだと思ったものだ。
「大丈夫ですか?」
「ああ、まあ、これくらいならね」
達央さんは痛みに眉を顰めながらも、「慣れているから」とあっさり言う。白姫さんと達央さん、意外とフランクな間柄なのかもしれない。
注文のブレンドコーヒーを伯父が淹れている間、達央さんは窓の外を見ていた。怜悧な容貌に浮かぶのは、楽しそうな笑みだ。視線の先を見やれば、デッキに座る大きな白い犬神と小さなキジトラ模様の猫又がいる。
「猫又か……久しぶりに見たよ。君にずいぶん懐いているようだな。さっきにゃーにゃー泣き付かれていたようだし」
「……あの、あいつ、いい奴なんです。お調子者だし子供っぽいけど、雪尾さんと遊んでくれて、単純で短気だけど意外と面倒見は良くて、あれで結構優しいんです。だから……その、退治とかしないで下さい」
俺がそう頼むと、達央さんは軽く目を瞠った。次いで、ふはっと吹き出す。
「別に退治する気はないよ。妖怪退治が専門じゃないし、それに……白姫も猫又君を気に入ったようだしな」
デッキの上では、白姫さんがキトの側に寄り添っている。白い毛並みに小さい縞模様の体を埋もれさせたキトは、見るからに緊張しているようだが逃げる様子はない。
大きな犬と小さな猫……少し前の、雪尾さんとキトを見ているみたいだった。目線を落とした後、気を取り直して達央さんに尋ねる。
「そういえば、今日はどうしたんですか?いきなり来たから驚きましたよ」
「ああ、妹と会う約束をしていてね。先日の件の処理もようやく終わって手続きも済んだから、直接会って報告しようと思って」
『先日の件』というのは、白瀬さんと雪尾さんが犬神筋の者に狙われた件のことだ。あれからひと月ほど経ったが、まだ記憶に新しい。
事件のせいで白瀬さんは犬神を見る力を失い、雪尾さんの身体も小さくなってしまった。あれから白瀬さんの家と犬神筋を束ねる大神という家で話し合いが行われ、白瀬さんを狙った家の者達を処分すると少しだけ聞いていたが、その事後報告ということだろうか。
達央さんはコーヒーを一口啜り、にやりと口の端を上げた。
「三時に店でと言う話だったが……あの子から何も聞いていなかったかい?」
意地の悪い質問だ。彼の来訪に驚いている時点で、俺が白瀬さんから何も聞かされていなかったことはわかっているだろうに。
むっとしたのが表情に出たのか、達央さんはすぐに謝ってきた。
「悪かった、本当は俺が黙っていてくれと言ったんだ。高階君を驚かせたいって言ったんだけど、あの子はちゃんと黙っていてくれたようだね」
「……そうですか」
「いやあ、彼氏より兄との約束を優先してくれるとは」
「っ…」
達央さんの言葉にぶほっと思わず噎せてしまい、隣にいた店主の伯父に咎めるような視線を向けられた。幾分は同情する意味合いも込められていたが。
咳払いで誤魔化して、達央さんを見やる。
「お兄さん、白瀬さんとはまだそういう関係じゃ……」
「あれ、君、まだ未緒のことを苗字で呼んでいるのか。でも『まだ』って言うんなら、その気はあるってことだろう?俺のことをお兄さんと呼んでいるくらいだからな」
「……」
完全に揶揄われている。赤くなった頬を引きつらせる俺に、達央さんは悪戯っぽく目元を細めた。
*****
「……それで、用は何ですか?」
頬の火照りが引いた頃、俺が尋ねると、達央さんは半分ほどに減ったコーヒーをソーサーに置いた。かちり、と陶器が小さな音を立てる。
「用とは?」
「約束の時間は三時だったんでしょう?三十分以上も早く来た理由は何ですか」
「君と少し話をしたかっただけだよ。……むしろ、君の方が俺に話があるんじゃないかと思ってね」
全て見透かしているような表情だった。だったら直球で尋ねようと俺は口を開く。
「話ならあります。白瀬さんが、雪尾さんを見るための方法を教えて下さい」
「……」
「白姫さんから少しだけ聞きました。雪尾さんが力のある者と“契約”すれば、力が戻るって。そうすれば、白瀬さんに雪尾さんがまた見えるようになるかもしれない。だったら、俺が雪尾さんと契約して力をあげれば――」
見えるようになるんじゃないか、と勢い込む俺の問いかけを遮ったのは、静かな視線だった。冷ややかなものではなく、深い海の底みたいに読み取れない色を浮かべている。
「高階君」
「……はい」
「君が本当に未緒と雪尾のことを大切に思ってくれているのはわかる。君にはふたりを助けてもらった恩もあるし、とても感謝しているんだ。……だが、契約は君だけで決められることじゃない」
「それは……」
「君は、未緒と雪尾、どちらが好きなんだい?」
「え?」
唐突な問いかけの意味がわからなかった。咄嗟に答えられずにいる俺に、達央さんは淡々と言葉を続ける。
「雪尾が見えなくなっても、君は未緒の側にいれるか?」
「ちょっと待って下さい。どういう意味ですか?」
「雪尾との契約が、今までの契約と同じようにいくか、俺達にもわからないんだ。雪尾は一度、主の力を喰らって強い力を得た犬神だ。白瀬の家では異質な存在でもある。もし、契約をしたときに雪尾が君の力を喰らってしまったら……君が、“見る”力を失う可能性だってある」
「っ……」
思わず息を呑んだ。
力を失う。それは、雪尾さんを見ることができなくなるということだ。そんなこと、少しも考えていなかった。
顔を強張らせる俺に、達央さんが申し訳なさげに目を伏せる。
「すまない、脅すようなことを言ってしまって。元々、真実を隠して、結果的にあの子の『目』を失わせてしまった自分が偉そうに言えることじゃないのはわかっている。……だからこそ、今は君に隠し事をしたまま、契約をさせたくないんだ」
「達央さん……」
「契約で何も起きないことが一番いいとは思っている。けれども、最悪の場合は……君はそれでも、未緒と雪尾の側にいられるか?……後悔は、しないかい?」
「……」
優しく諭す声に、俺は答えられなかった。
唇を引き結ぶ俺を、達央さんはただ穏やかに見つめる。
「高階君、どうか焦らないでほしい。あの子達のためだけじゃない、これからの君のための選択をしてくれ」
達央さんはそれだけ告げて、湯気のなくなったコーヒーに口を付ける。
折しも、テーブル席の客から「すみませーん」と呼ぶ声がして、俺は急いでそちらに向かう。注文を受けながらも、頭の中で達央さんの声が消えることはなかった。
もしも、雪尾さんが見えなくなったら。
俺は、どうするのだろう――
今後は、少しシリアス……というより、高階君がちゃんとふたりとの関係に向き合う展開になっていきます。
終わり方が暗くなってしまったので、少し明るいおまけ話を。
*****
閑話:キジトラ君は気づく
『おや、来たようだ』
隣にいた白いでっかい姉さんが、唐突に呟く。
何のことかと思いきや、聞き覚えのありすぎる足音が聞こえて、オイラは咄嗟に身構える。
いつもよりも元気な、跳ねるような足取りでかけてくるのは、オイラの永遠の好敵手である、あの白いのだ。後ろ足で思いっきり地面を蹴って、こっちに向かって飛んでくる。
しかし、大きな白い前足がそれを遮った。でっかい姉さんである。
白いのの小さな額の部分をばしりと押さえて、『落ち着け雪尾』と静かな声で窘めた。
白いのはそれでも興奮冷めやらぬようで、押さえつけられてもじたばたと短い脚を動かしている。それはもう楽しそうに。
……何だろう。この光景、どっかで見たぞ。
さらに、でっかい姉さんは白いのの首根っこを銜えると、ぽーんと上に高く放り投げた。
落ちてくるのをさらに銜えて、何度か放り投げる。白いのは、きゃっきゃっと笑ってとても楽しそうだ。
……おかしいな、この構図、見覚えがありすぎる。
そしてようやくオイラは気づいた。
これは、以前、オイラがしょっちゅう白いのにされていたことであると。
異なるのは、される側が楽しそうか否かである。
姉さんはそこでオイラに青い目を向けてきて『そなたも遊ぶか?』と言ってくる。
……ああ、これって(一応)遊んでくれて(るつもりだっ)たのか……
遠い目をするオイラをよそに、姉さんと白いのはアクロバティックな遊びを続けていたのだった。
*****
雪尾さんに好き勝手に遊ばれていたキト君。実は遊んでくれていたのだと知り、ちょっとショックを受けました。なんかこう……なんかさぁ……(泣)的な。




