02 白い犬神と老人と大福(後編)
紅茶も意外と美味いもんだ。
とりあえず『茶』が付くから、緑茶みたいなものなのだろう。そう言うと、章良は「元となる茶の葉は同じですからね」と苦笑した。発酵しているかいないかの差だと言う。
なるほどねぇ、と出された紅茶を飲み終えるころ、お嬢さんが手水で席を立った。すると、お嬢さんの向こう側に座っていたユキオさんの姿がよく見える。
足を精一杯延ばして、顔をミルクのカップに突っ込んで飲む様は、何だか一生懸命だ。そんなに勢いよく飲むと腹壊すんじゃねぇか、と言いたくなる。恵が心配になるのもわかる気がした。
しかし、何といっていいものやら。考えながらユキオさんを見やるが、視線に気づかないほどミルクに集中しているらしく、隠れる素振りはない。
やがて、飲み終えたユキオさんがカップから顔を出して座席にころんと座った。
けふぅ、と満足そうに息を吐くユキオさんの小さな腹は、ぽっこりと膨れている。牛乳を飲んだ分だろうか。柔らかそうな白い毛に包まれた丸いお腹は、何かを思い起こさせた。
白くて、柔らかくて、丸くて、ふくふくとした――
「……大福みてぇな腹だな」
思ったことがそのまま口に出てしまった。
そして、その直後に後悔することになる。
儂の一言にユキオさんは雷に打たれたように身体を硬直させ、青い目を思いっきり見開いてこちらを見つめた。
同時に、それを見ていた恵が「じーさん、そりゃないわ…」と嘆息して天を仰いだ。
***
「まあ、なんだ、その……すまねぇな。悪気はなかったんだが」
その後、ユキオさんは戻ってきたお嬢さんの後ろにすっかり隠れてしまい、しょげ込んでいる。ずーんと重力と影を背負って項垂れるユキオさんに向かって謝ると、お嬢さんが苦笑を浮かべた。
「そんな、気にしないで下さい。前にも牛乳の飲み過ぎで、高階君からお腹が丸くなったって言われたときも、こうなったらしいし……」
なんだ、恵のやつも言ったのか。
じろりと横目で見やれば、恵は「じーさんが言ったのよりはマシだろ」と返してくる。
「俺はもうちょっと控えめに言った。じーさんははっきり言いすぎだよ」
「儂の大福の方が間接的でマシだろうが。丸いなんて直接的な言葉よりはな」
「いや、大福の方が傷つくと思う」
「何だと?そもそもお前が……」
カウンター越しに言い合っていれば、ふふっと小さな笑い声が聞こえる。章良とお嬢さんが零した笑いだった。「二人とも似ているでしょう?」「はい、本当に」とにこやかに交わされる言葉に、儂と恵は顔を見合わせて、気まずく黙り込んだ。
ミルクティーを飲み終えたお嬢さんは、鞄を肩にかけて立ち上がった。
「ごちそうさまでした。……おじいさん、お先に失礼しますね」
カウンターの入口に近い方の端にあるレジの前にお嬢さんと恵が移動すれば、ユキオさんもお嬢さんを追いかけるために座席から飛び降りようとする。
その背に、囁くように声を掛けた。
「ユキオさん。あんまりひとりで気張るなよ」
小さな三角の耳がピクリと揺れて、尖った鼻先がこちらを向く。
どう伝えよう、この小さな犬神に。
まるで早く身体を大きくしようと――再び主に姿を見てもらおうと、懸命に牛乳を飲む犬神に。
「寂しがるなとは言わねぇよ。お前さんが不安がるのはわかるつもりだ。でもな、不安になるこたぁ一つもねぇんだ」
大きかろうと小さかろうと、見えようと見えなかろうと、お嬢さんは以前と変わらずに犬神を慈しんでいた。
彼女の目は、ミルクの水面に広がる波紋や跳ねる雫の一つ一つを――見えない犬神を見つめていた。
「お前さんは、もうちっと信じて、甘えていいんだ。お前さんには、主のお嬢さんがいるんだからな。ついでに、うちの恵だっている。……ひとりじゃないんだよ、お前さんは」
見つめてくる円らな青い目が、光を湛えて瞬いた。
……泣きそうだと思ったのは、気のせいだったろうか。
湿った空気になる前に、にやりと片頬をあげてみせる。
「……牛乳、飲み過ぎて腹壊すなよ。あと、大福って言って悪かったな」
儂の言葉に、犬神はしっぽを軽く振ると、前足をちょこんと揃えて頭を下げた。そうして、今度こそ座席から飛び降りて、弾むような足取りでお嬢さんへと駆け寄る。
それを見送った後、儂は口元に手を当てて、緩む唇を隠した。
――ありがとう。
耳に届いた、小さな小さな声。
そういえば前もこんなことがあったな、と甘酒好きな白い犬神を思い出した。
***
しばらくして、恵から連絡があった。
ユキオさんの牛乳を飲む量が少し減ったとのことだ。
礼を言ってきた後、「大福が効いたのかな」と尋ねてくる恵に、さあな、と儂は笑って返したのだった。
おまけ ~その後の高階家~
遠出をしたので、ふと思い立って和菓子屋で土産を買って家に戻った。
「じーちゃん、お帰り」
リビングのソファで携帯ゲーム機をいじっていた孫――恵の弟である望が顔をあげて、儂の手元の包みに気づくとぱっと笑みを浮かべる。
「やった!ありがと、じーちゃん。……そうだ、兄貴はどうだった?またぶっ倒れたの?」
「心配するな、元気そうじゃったわ」
「そっか、よかった」
ソファから立ち上がった望がお土産を受け取り、さっそく台所へと向かう。その後に付いていきながら尋ねた。
「そういや、晶と夕子さんは?」
「父さんは仕事。母さんは夕飯の買い物。今日は天ぷらだって」
答えながら、望はくしゃくしゃと土産の包装を外した。甘いもの好きな孫は中身を見て嬉しそうに顔を綻ばせる。
望はいそいそと緑茶を淹れてから、ダイニングのテーブルに土産と湯呑を並べた。
「いっただっきまーす。……おお、もっちもち」
土産の和菓子――大福を取ってそんなことを言う望に、儂は思わず吹き出してしまう。
「……どしたの」
「いや、何でもない」
怪訝そうな望に構わずに大福を手に取れば、柔らかなふにふにとした感触に再び笑いが零れてしまう。
ああ、せっかくなら、あの小さな犬神さんの腹を撫でておけばよかった。きっとこの大福みたいな手触りだっただろう。
当分は大福を見るたびに白いポッコリお腹を思い出してしまいそうだと、しばらく笑いの収まらぬ儂を、孫は奇妙そうに見やっていたのだった。
その後、望が「じーちゃんが変なんだけど!大福で笑ってるんだけど!」と兄の恵に電話していたことを知るのは、ずいぶん経ってからのことである。




