01 白い犬神と老人と大福(前編)
高階君のおじいさん目線の話です。
本編完結後から一か月後くらいの話になります。
孫の恵が電話で妙な頼みごとをしてきたのは、先日のことだ。
『じーさん、今度の月曜、ちょっと店に来てくれない?』
「どうした、また何かに憑かれたか?大丈夫か?」
『あ、いや、憑かれたわけじゃないし、元気だよ。えーと、そうじゃなくて……』
「なんだ、はっきり言わんか」
『その……雪尾さんのことなんだけど……』
『ユキオさん』といえば、孫を助けてくれた白い犬神だ。一体何があったのかと尋ねてみれば、恵は言葉を濁しながら告げる。
『心配なんだ。……最近、雪尾さん、ちょっと――』
告げられた内容に愕然としながらも、儂は必ずシリウスに行くと返したのだった。
***
次の週の月曜、昼下がりに店を訪れれば、恵がほっとした顔で出迎えてくれる。
見たところ本人の顔色は悪くないし、体調も良さそうだ。孫の元気そうな姿に内心で安堵しながらも仏頂面で見やれば、恵は小さく頭を下げた。
「ありがとう、じーさん。頼み聞いてもらって……」
「まだ何もしとらんわ。礼なら後で聞く」
袂で腕を組んで素っ気無く言うと、恵は母親似の顔に苦笑を浮かべた。
店内に案内されて、カウンターの端の席に着く。カウンター内から、恵の伯父でシリウスの店主である章良が「こんにちは、薫さん」と会釈してきた。
コーヒーではなく紅茶を頼むと、「珍しいですね」と章良が笑みを見せて背後の棚から紅茶の缶を取る。お湯の沸く音に、嗅ぎ慣れない独特の香り。普段はコーヒーか緑茶ばかりなので、少し新鮮だ。
紅茶が出来上がるのを待つ間に、恵に「ユキオさんは?」と尋ねると、犬神の主である白瀬のお嬢さんと約束を取り付けていたらしい。もう少ししたら来ると思う、と恵が言った矢先、ドアが開く音が聞こえた。
いらっしゃいませ、と響く恵の声の中に、床を掻く小さな爪音が交じる。見やれば、眼鏡をかけた小柄な女性と、その足元に小さな子犬姿の犬神がいた。女性が歩く傍ら、犬神は短くなった脚で身軽に床板を蹴って走る。
「……」
思わず目を瞠った。恵から話を聞いていたが、本当に小さくなったのだと驚いたのだ。
だが、感じる気配は以前と同じだ。それに、こちらの視線に気づいた途端、主の足元に隠れながらも顔を半分出して窺ってくる様は変わらない。
恥ずかしがり屋で可愛らしい様子に、驚きは薄れ、ふっと笑い交じりの息が零れる。カウンター席に近づいてきた白瀬のお嬢さんに向かって、軽く片手をあげた。
「久しぶりだな、お嬢さん」
「高階君のおじいさん!お久しぶりです」
白瀬のお嬢さんは驚いたように目を瞬かせた後、顔を綻ばせて挨拶してくる。ユキオさんは相変わらず足元に隠れているが、ちらちらとこちらを見上げているのがわかった。
「犬神さん……ユキオさんも久しぶりだな」
声を掛けると、ぴっと短くなったしっぽを跳ねさせて、お嬢さんの足の後ろに隠れる。……隠れてしまっては、ちゃんと身体が見えない。
恵の方を横目で見やれば、困ったように肩を竦めた。
――恵から頼まれたのは、ユキオさんの身体が大丈夫か見てくれということだった。
春先に起こった事件で、ユキオさんは霊力を使い過ぎて小さな身体になり、さらに白瀬のお嬢さんは犬神を見る力を失ったと聞く。
以来、ユキオさんはやたらと牛乳を飲むようになったそうだ。
小さな身体で以前よりも多い量を飲み、大丈夫なのかと恵は心配しているらしい。そもそも犬神が牛乳を飲むというのもおかしな話だが、人間にしろ犬神にしろ、飲み過ぎは確かに身体にいいとは言えない。
とはいえ、自分は犬神の専門ではない。祓い屋もどきの自分より、それこそ白瀬の家の方に聞いた方がいいんじゃないかと聞けば、恵はごにょごにょと口ごもった。身内の方が頼みやすく、それに自分の取り越し苦労だったら、という気持ちがあるようだ。
まあ、結局は頼みごとを聞いてわざわざ訪れたのだから、自分も孫に甘く、犬神のことを気にかけているのだろう。
さて、人見知りの犬神をどう観察するか。やれやれと内心で息をつく儂の前に、章良がいつもの笑顔で紅茶を差し出してきた。
カウンターの二つ隣の席に座ったお嬢さんは、ミルクティーとホットミルクを頼む。足元をうろうろしていたユキオさんは、何回かジャンプしてようやくカウンターの座席に飛び乗ることができた。
身体が小さくなったこともあるが、全体的な力も少し弱まっているのだろう。大きな身体で軽々飛び乗れていた姿を思い出すと、何とも言えない気持ちになる。
しかし、ユキオさんに落ち込んだ様子は見られない。お嬢さんを挟んで向こう側の席に着いているからちらちらとしか見えないが、椅子の上で立ち上がってカウンターに前足を置き、小さなしっぽを振りながらホットミルクを待つ姿は以前と同じだ。
カウンター越しに親し気に世間話をするお嬢さんと恵に、ユキオさんは少し不満らしい。カウンターの上に飛び乗ると、二人の間に割り込むように座った。
それを見た恵が小さく吹き出し、犬神の様子をお嬢さんへと伝えている。お嬢さんも口元を緩めて、見えないであろう犬神に「駄目だよ雪尾、カウンターに乗ったら」と小声で話しかけた。その様子を見る恵の眼差しは柔らかい。
……何だ、いい雰囲気じゃねぇか。
女性が苦手なのか浮いた噂の聞こえてこない孫であったが、これで一安心だろうか。息子と嫁にも報告しといてやるかと考えていれば、恵が視線に気づいたらしく、慌てて表情を引き締めて仕事に戻った。
タイミングよく章良がミルクティーとホットミルクを差し出して、受け取ったお嬢さんがホットミルクを隣の席に置いた。
ちゃんと席に戻って再び後足立ちになったユキオさんは、小さな顔を湯気の立つホットミルクの水面に近づけて――あちっ、と慌てて鼻先を引っ込めたのだった。




