最終話 白いしっぽと私の日常
今朝は随分と冷え込んでいる。
寒さで目が覚めれば、目覚まし時計はセットした時刻の二十分前を示していた。外はまだ暗く、カーテンの隙間から見える光は弱い。
毛布を被り直して短い二度寝に戻ろうとすれば、ぽふ、ぽすっ、と布団の上で小さなものが跳ねる感覚が伝わってきた。起きて、起きて、と忙しない動きに、思わず苦笑を零す。
しばらく布団から伝わってくる感覚を楽しんでいれば、瞼を重くしていた微睡も去ってしまう。一度欠伸をしてから身を起こすと、布団の上には何も無い。しかし構わずに、枕元に置いていた眼鏡をとって、ベッドから降りた。
カーテンを開いて外を見ると、空は薄暗い。まだ太陽の位置が低いせいだけでなく、どんよりと重たそうな雲が広がっているからだ。
昨日の天気予報では、初雪が降るかもしれないと言っていた。
「……雪、降るといいね」
呟くと、握っていたカーテンの下の方が少し揺れる。
カーテンを少し開けた状態にして、朝の支度をゆっくりと進めた。顔を洗って、着替えをして、朝食の準備をして。小鍋で牛乳を温めていれば、足元でかりかりと床板を引っ掻く音がする。
テーブルに水色のカフェオレボウルを置き、温めた牛乳を半分程の高さまで入れる。いただきます、と自分の朝食を食べ始めれば、ボウルの中で雫の跳ねる音がした。
小さくなった最初の頃は牛乳をうまく飲めずに、ボウルの周りに白い滴が点々と跳ねていたものだ。飲む様子を見た高階君は「そんなに急いでたくさん飲むとお腹壊しますよ」と言っていた。相変わらず牛乳が大好きだからか、それとも、たくさん飲んで大きくなれるようにと思っているのか。
カフェオレボウルを眺めてそんな想像をしながら、声をかける。
「今日、帰りにシリウスに寄ろうか」
ぴちょん、とボウルの中に白波が立ち、机の上に白い滴が一滴跳ね落ちた。
*****
私が雪尾の姿を見ることができなくなってから、半年以上経つ。
桜の木の下で雪尾に触れ、抱きしめていた時間はそう長くはなかった。腕の中から雪尾の温もりが消えたときはやはり悲しかったが、不思議と寂しくはなかった。傍らに来た高階君に「雪尾さん、地面に落ちた拍子に顔を打ったみたいです」と教えてもらい、想像して思わず笑みを零しながら「大丈夫?痛かったね」と手を伸べたものだ。
そのまま検査入院した日の翌日には、朝から両親が駆けつけ、昼には姉の奈緒と妹の莉緒までやってきた。
家族は皆、小さくなった雪尾を見て驚き、そして見る力を失った私に戸惑いを見せた。両親からは今まで黙っていたことを謝られて、それを聞いた姉妹達は両親と兄の達央を詰ったものだ(姉妹曰く、兄妹の中で兄だけ知っていたことがずるいということらしい)。
その後、私は両親と話をして、正式に白瀬の家から出ることを決めた。家との関係を断つわけではなく、犬神筋から私と雪尾の名を完全に外してもらったのだ。
もう私には犬神を見る力は無く、雪尾も新たな犬神の核となる『魂』を生み出すことができない。私と雪尾が狙われる理由も無くなったが、確実に犬神筋を牽制するためだった。
夏貴さんは、今後一切、私と雪尾に犬神筋の者が関わることが無いように大神本家が協力すると約束をしてくれた。私と雪尾を狙った下田代家の者や犬神達も、大神本家の方で確保し対処することが決まったと、数日後に兄から聞いたものだ。
そうして、私と雪尾にいつもの日常が戻ってきた。
前と同じようで、少し違う日々。
地面に落ちた桜の花びらや、黄色の菜の花を揺らす風。
若草色の芝生を駆ける音。
ひらひらと飛ぶ蝶が空中で止まったかと思えば、小さなくしゃみの音で飛び立つ。
道路の水たまりに跳ねる雫、広がる波紋。
道の先の陽炎の中に揺れる、小さく透明な影。
グラスに氷を浮かべた、甘いアイスミルク。
秋の夕暮れに長く伸びた私の影。その隣に、小さな犬の影が映る。
赤や黄色、茶色の落ち葉を踏み鳴らす音。
水色のカフェオレボウルに入れた、温かいホットミルク。
季節が巡る中で、変わらない日常の中で、私の目は、耳は、見つける。
たとえ姿が見えなくても、あなたが私の側にいることを知る。
寂しいときもあるけれども、あなたの存在の一つ一つに気づくことが楽しくて、嬉しくて――愛おしかった。
だからきっと、これからも、私は――
*****
煉瓦を引っ掻く小さな爪の音。デッキを駆け上がる軽い音。少し前を行く雪尾の姿を音で追っていれば、最初にここを訪れた時のように、内側から扉が開く。
「いらっしゃいませ」
姿を見せたのは、白いシャツに黒いエプロンをつけた青年――高階君だ。彼の目は、私の足元を見て優しく細められる。
案内されたのは、カウンターではなく窓側のテーブルだった。窓の外を見てみると、キジトラ模様の小柄な猫がデッキでうろうろしながら、こちらを見ている。
キジトラ猫のキト君はシリウスの看板猫となったらしく、よくデッキに姿を見せて、猫好きのお客さんに遊んでもらっている。
遊んでくる?と足元に声を掛ければ、三秒後にはキト君が後ろに吹き飛ぶように不自然な転び方をして、じたばたと暴れ始めた。
「わー……雪尾さん、思いっきりキトにじゃれついてます」
どこか遠い目をした高階君が、苦笑しながら教えてくれる。
身体が小さくなったとはいえ、雪尾はキト君よりも一回りは大きいので、じゃれつかれると大変らしい。でもちゃんと雪尾の遊び相手をしてくれるから、やっぱり仲は良いのだろう。
「ご注文は?」
「ミルクティー一つと、ホットミルクを一つ」
いつもと同じ注文をしてカウンターを見ると、店主のおじさんが微笑んで会釈した。
こちらも笑顔で会釈を返してから窓の外を眺めると、キト君がようやく起き上がって、何やらにゃあにゃあと騒いでいる。そうして今度は取っ組み合いをしているように、ごろごろとデッキを転がっていく。その様子を、いつの間に現れたのか、綺麗な黒猫が手摺の上でゆったりと座って見学していた。
何だか楽しそうだなぁ、と時間が経つのも忘れて眺めていると、ふわりと甘く優しい香りが鼻をくすぐる。
「お待たせしました」
お盆に乗った白いポットと、二つのカップ。テーブルの上に並べられるのは、ミルクピッチャーや砂糖の入った小皿。湯気の立つカップが、ことりと小さな音を立てて置かれた。
「雪尾」
小声で呼びかければ、ふぅっと冷たい空気が足元を撫でる。テーブルが小さく揺れて、紅茶とミルクの水面に波が立った。横を見上げると、空のお盆を持った高階君が頷いて、戻ってきましたと教えてくれる。
「熱いから気を付けて下さいね」
高階君が注意した矢先、テーブルの向かいに置かれたホットミルクに、ちゃぷっと大きな波紋が広がって、しばし沈黙が落ちて鎮まった。……どうやら、熱かったらしい。
高階君と顔を見合わせて苦笑すれば、ふと、彼が窓の外に目をやった。
「未緒さん」
名前を呼んできた高階君――恵君が、窓を指差す。
指の先を目で追えば、黒に近い焦げ茶色のデッキを背景に、白いものがちらついていた。
「……雪、降ってきましたね」
「積もると、いいですね」
あなたが見えなくなってから、初めて降る雪。
白い雪の原につく足跡は、どのくらいの大きさだろう。
年を重ねると、大きくなっていくのだろうか。
そうやって、私はまた一つ、あなたのことを知ることができる。
見えないあなたの存在を、見つけることができる。
「楽しみだね、雪尾」
ぱたり、ぱたり。
今日も、私の側で小さな白いしっぽが揺れている。
《完》
本編はこれで完結です。
長い間この物語にお付き合い頂き、本当にありがとうございました。
ひとまず完結設定とさせて頂きますが、私と彼と犬神の物語はもうしばらく続きます。
今後は、彼らのその後を描いた後日談や番外編などを書き溜め、目途が立ち次第、更新していきたいと思います。その際はまた、お付き合い頂ければ幸いです。




