76 白いしっぽと見えない私 後編(2)
地面に広がる、桜の白い花びら。まるで薄く雪が積もっているようだ。
本物の雪だったら、足跡で雪尾の場所がはっきり分かるかもしれないのに。何もないその場所を見つめながら、本当に見えなくなったのだと実感する。視界の頼りなさに不安になるけれども、私だけじゃなくて、雪尾も不安で怖がっているのだろう。
『ちゃんと伝えてやれ』
夢の中で、誰かが背中を押してくれた。
雪尾に一番伝えたいことが、ちゃんと伝わるように、言葉に、声にする。
「……私、雪尾が好きだよ」
地面の花びらが、二、三枚、風も無いのに揺れる。きっと、白いしっぽが揺れたのだろうと想像できた。
「嫌いになんて、ならないよ。ずっと、私の側にいてくれて……本当に、ありがとう」
見えない私の側にいることは、きっと、淋しかっただろう、辛かっただろう。
それでも、痛みを抱えながらも、ずっと私の側にいてくれた。私が見ることができるようにと力を削って、犬神としての生を捨ててまで、側にいてくれた。
「だから……私、決めたの」
そう言いながら、何もない宙空にそっと手を伸ばす。
どのくらいの高さだろう、身体が小さくなってしまったと聞いたけれども。高階君にもっと詳しく聞いておけばよかったと、そんなことを考えながら、近くにいるであろう白瀬の筆頭犬神に呼びかけた。
「……白姫様、お願いします」
――私の願いは、あなたをもっと悲しませることになるかもしれない。それでも、私は願った。
強い風が吹いて、ざあっと桜の木が音を立てる。白い花びらが青白い光を纏い、風と共に降り注いでくる。視界を覆う花吹雪の中、私は薄く開いた目を、やがて大きく見開く。
桜の木の下に座る小さな白い犬が、円らな青い目で見上げてくる。
雪のような毛並み、青い星のような目。
小さく揺れる、白いしっぽ。
……ずっと、思い描いていた。
あなたの姿を、何度も想像していた。
凛々しく雄々しく、綺麗で格好良い、白い大きな犬神。
だけど想像していたよりも、ずっとずっと小さくて。
甘えたがりで怖がりで、淋しがり屋で泣き虫な――私にそっくりの、私の犬神。
手の位置を下げて、恐る恐る伸ばした指先に、雪尾の頭の白い毛が触れる。
短いふわふわとした毛は、しっぽよりも柔らかだった。頭の毛を指の腹で梳き、小さな三角の耳と一緒に包み込むように掌で撫でれば、雪尾の青い目が瞬いて、はっきりと私の目を見つめ返した。
……やっと、あなたに会えた。
「っ……」
夢でも幻でもない。実感すれば、胸に何かがせり上がってくる。歓喜か、哀切か。自分でも解らぬ感情に眦が熱を帯び、震えそうになる唇を強く引き結んだ。
泣くな。
泣いたら、せっかく見えた雪尾の姿が、霞んでしまう。
短く息を吐き出して、口元に笑みの形を作った。瞬きもせずに、雪尾の姿を目に焼き付けるように見つめる。
そうして地面に膝を付き、両手を伸ばして、雪尾の身体を抱き上げた。
雪尾は小さく体を震わせながらもされるがままで、私の腕の中に収まった。意外と重たくて、その重さと温かさを感じながら、そっと抱きしめる。
「……白姫様に、お願いしたの。私に残っている『目』の力を使って、雪尾を見ることができるようにして下さいって」
雪尾が私に白いしっぽを見せてくれたように、今度は私が力を使って雪尾の姿を見たい、と。一時間だけ、いや、五分だけでもいい。雪尾に触れたいと、願った。短くても確かな『今』が、欲しかった。
例えこれで力を使い切って、二度と雪尾を『見る』ことができなくなっても――
そして兄と白姫様は、私の願いを、わがままを聞いてくれた。
「雪尾……ごめんね」
抱く腕に力を込める。雪尾の耳がぴくりと揺れて、私の頬を掠める。
「これから先、あなたの姿も、目も、しっぽも、見ることができなくなるかもしれない。あなたに触れることも、できなくなるかもしれない」
私の肩の近くに置かれた雪尾の前脚が、ぎゅっと服を掴んでくる。
「きっと、これからも、淋しい思いも辛い思いも、たくさんさせるかもしれない。それでも……」
掠れる声を、震える息を、吐き出して。
私は、願う。
「……それでも、私の側にいて」
雪尾の身体が、震える。前脚の爪が食い込んで、皮膚に痛みが走った。
「見えなくても、あなたを探すから。きっとあなたを、見つけるから」
だから、お願い――
「これからも、私と一緒に生きて。ずっと、私の側にいて、雪尾」
お願い、と最後の声は音にならずに、息に交じる。
一方的な私の思い。酷な願いをしていると解っている。雪尾の答えを聞くのは怖くて、それでもたぶん、この手は離せない。私は欲張りで、雪尾を抱きしめるための現在だけでなく、これから先の未来も望んでいる。見えなくとも、触れられなくとも、共にありたいと。
抱きしめた雪尾の身体が震える。どこからか、子供の泣き声が聞こえてくる。
いつかどこかで、聞いていた声。――あなたの、泣く声。
私が抱く力を強くすれば、雪尾もぎゅっとしがみついてくる。
みお、みお。
私の名を呼ぶ幼い声につられて、目に溜まっていた涙が溢れた。頬を伝った涙が雪尾の頭へと落ちれば、冷たくて驚いたのか、ぴゃっと耳としっぽが跳ねる。その可愛らしい動作に、思わず頬が緩む。同時に、堰を切ったようにぼろぼろと涙が零れて、雪尾もぐいぐいと頭を押し付けてきた。
抱きしめて、泣いて、撫でて、笑い合って。
そして――
雪が溶けるように、私の腕の中の温かな重みは消えていった。
*****
青白い光は、雪のようにふたりの周囲に降り注いだ。それは、白姫さんが砕いた白瀬さんの『目』から溢れた光だ。
白瀬さんの選択を知り、俺は両脇に降ろした拳を握った。
「……白姫さん」
ふたりの姿を見つめながら、傍らにいる犬神に尋ねる。
「さっき言っていた、『方法』って何ですか。俺に、何ができますか」
『……我らは、主と契約を結ぶことで、主の持つ力を得ることができる。雪尾が力のある“誰か”と契約すれば、力を再び得ることができよう。とはいえ、雪尾は未緒から離れることはせぬだろうがな』
光の降る中で、固く抱き合うふたり。
きっと、これからも離れることはないのだろう。この短くて永遠とも呼べる時間があれば、ふたりはこれからも一緒に生きていけるのだろうと、解る。
『高階』
「……」
『未緒と雪尾、ふたりと共に生きる覚悟ができれば、そのときは……』
白姫さんは、最後まではっきりと教えてくれなかった。
白瀬の責を負う必要は無いと言ってくれた彼女のことだ。俺がそこまでしなくてもいい、一時の感情で答えを急ぐことはない、と言うことだろう。
けれども――きっと俺は、遠くない未来に、今と同じ答えを選ぶのだと思った。
俺は拳を強く握り締めながら、愛しいふたりの姿をいつまでも見つめていた。




