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75 白いしっぽと見えない私 後編(1)


 図書館の片隅で手に取ったのは、動物図鑑。

 子供向けの図鑑は、写真やイラストが多くて、眺めているだけでも楽しくなる。ひらがなの多い文章を流し読みながら、ぱらり、ぱらりとページをめくる。

 ふと、目に飛び込んできた“いぬのなかま”という言葉に手を止めた。

 そのページには、たくさんの犬が、写真と名前入りで載っている。

 パグ、チワワ、ポメラニアン。ビーグル、ボーダーコリー、柴犬。ゴールデン・レトリーバー、ダルメシアン、シベリアンハスキー。


――『シベリアンハスキーっぽいけど、それより細身で』


 次のページをめくれば、いぬのなかま2、とタイトルがある。

 キツネもタヌキも、同じイヌ科の動物らしい。あんまり似ていないのに、何だか不思議だ。ぽてっと丸い、どこか気の抜ける表情をしたタヌキを見て、くすりと笑みを零す。

 耳が大きく愛らしいフェネック、野性味ある風貌のコヨーテ。それに、オオカミ。


――『狼みたいに見えます』


 他のイヌ科の動物よりも大きな写真には、四肢でしっかりと大地を踏みしめて、遠くを見つめる一匹のオオカミが映っている。

 きりっとした顔。先がわずかに丸みを帯び、直立した三角の耳。アーモンド形の綺麗な目。

 茶色がかった灰色の毛並みで、身体は引き締まり、四肢は逞しい。


――『目は水色……青かな。毛は白くて、ぼんやり光ってて』


 写真のオオカミを見つめたあと、目を閉じて想像する。


 彼方を見つめる琥珀色の目を、星のような青色に。

 荒野の風になびく毛並みを、雪のような白色に。


 瞼の裏に描くのは、あなたの、姿。


――『綺麗で……とても、かっこいいです』


 ……うん。彼の言う通りだ。

 あなたは、綺麗で、とても、かっこいい。


 ああ。

 いつか、あなたの姿を、この目で見ることができたら――




*****




 病院の庭にある桜の木の側に、高階君はいた。白い満開の桜の下、一人佇む姿が暗い庭にぽつりと浮かんでいる。

 見つけたその背に、私は足を止めた。後ろを振り返り、ふらつく私の肩を支えてくれていた兄の手を外す。

 全ての話を聞き終えた後、私が病室から出ようとすれば、兄と夏貴さんは付き添ってくれた。白姫様と吹雪も側にいたらしく、白姫様は雪尾を探すために先に外に出て、吹雪はそれを辿って案内する――と兄が説明してくれた。

 辿り着いた先。高階君の近くに、きっと雪尾はいるのだろう。

 一つ深呼吸して、一歩前に進む。


「雪尾」


 名前を、呼ぶ。

 高階君が弾かれたようにこちらを振り向いた。

 兄から眼鏡を渡してもらっていたので、今はちゃんと彼の表情が見える。驚きに見開く目が私を見て、そしてはっとして桜の木の方に顔を戻した。


「っ、雪尾さん!待って……」


 高階君が焦って手を伸ばし、桜に駆け寄ろうとする。雪尾が再び逃げようとしていると分かって、私も咄嗟に声を張った。


「待って、雪尾……wait(待ちなさい)!」


 シット、ステイと続けて命令を言えば、高階君がぽかんと口と目を丸くして、私と桜の木を交互に見やる。

 背後では「み…未緒?」と兄の困惑したような声や、「…何で吹雪までお座りしてるの」と夏貴さんの呆れた声がした。

 奈緒姉さんのように言ってみたのだが、吹雪まで命令を聞いているのなら、ちゃんと効果はあったらしい。昔、姉が吹雪と雪尾に植えつけた習慣と恐怖は、大きくなっても変わりないようだ。

 まさか姉のスパルタ指導が役に立つなんてと、こんな状況なのに何だか少しおかしくなる。兄達の驚きようも一興だった。

 ふうっと苦笑い混じりの息を零す。肩の力と緊張が、少しだけ解れた。


 ――よかった。私の声は、雪尾に届いている。


 ぐっと拳を握って前を向き、高階君に歩み寄った。高階君の躊躇いがちな視線を受けながら、私は横に並ぶ。


「白瀬さん…」

「高階君、雪尾はどのあたりにいますか?」


 見上げて尋ねれば、高階君はわずかに目を瞠って、やがて桜の木の前の地面を指差した。桜の根元、二股の間の吹き溜まりになったところ。地面を薄く覆った白い花びらが、少しだけ散らされた箇所がある。

 私はゆっくりと近づいて、少し手前でしゃがみこんだ。


「雪尾。……兄さんと白姫様から、全部聞いたよ」


 そう切り出すと、白い花びらが一枚、地面の上で不自然に揺れた。






 ――兄から話を聞いていくうちに、不思議と私の心は落ち着いていった。


 白瀬の犬神のこと、犬神に目を喰われた『目無し』のこと。

 私が犬神を見ることができない理由、それをずっと隠していた理由。

 それから、白姫様が教えてくれた、雪尾のしっぽだけが見える理由。


 聞いている間は、もちろん怒りも悲しみも湧き起こった。

 何でもっと早く教えてくれなかったのか、そんなに私が信用できなかったのか、と。

 それと同時に、自分も知ることが怖かったのだと思い返した。

 幼い頃に本当の事を聞かされていたら、私は、雪尾のことをどう思っていただろうか、受け入れることができただろうか、と頭の隅で冷静に考える自分もいた。もっと早く知っていたら、雪尾の悲しみを少しでも無くしてあげられたかもしれないと、後悔する自分もいた。

 こうしていれば、ああしていればと仮定をしたところで、結局のところ、結論はわからない。何が最善だったのかなんて、誰にも知る由は無いのだろう。

 ただ、今こうして真実を聞かされても、雪尾に対する気持ちに変わりが無いということが、私の心を静かにしていった。


 ふと、私の前に兄の手が差し出される。どうしたのだろうと見上げれば、兄の掌には、私の『目』が載っているらしい。

 どうする、と聞かれた。『目』を戻しても雪尾が見えるようになるかはわからない、と告げられた。


 雪尾と高階君が守ってくれた、私の『目』。――答えを迷う訳もない。

 兄を見上げて、私は言った。


『……兄さん、白姫様。一つ、頼みがあるの』


 あの子の思いに答えるための、私のための、願い事。

 叶うかすらも解らない願いを口に乗せれば、兄は目を瞠って、やがてしっかりと頷いた。


長くなったため、後編を2部に分けています。


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