74 白いしっぽと見えない私 中編
建物から外に出れば、強く冷たい風が剥き出しの頬に当たる。晴れた空はすっかり暗い帳に覆われて、小高い丘にある病院の周囲は静寂に包まれていた。
この病院には木々に囲われた広い庭があり、患者や見舞いに来た者達の憩いの場となっていた。ついさっき、白瀬さんの病室の窓から見下ろした庭の一角で、俺は辺りを見回す。
点在する頼りない外灯だけでは、夜の庭を見通すことなど到底できない。それでも、白い小さな光を――小さな犬の姿を探す。
脳裏によみがえるのは、あのとき――白瀬さんの目に己が見えていないとわかったときの、雪尾さんの姿だ。
短いしっぽは硬直した後、力を失ったようにしおれる。シーツに踏ん張った四つ足は震えて、よろよろと後ろに数歩下がった。ぺたんと尻餅を付いたかと思えば、今度は立ち上がっていきなり駆け出した。雪尾さんはこちらに背を向け、シーツを蹴ってベッド横の窓へと飛び付いて、すり抜ける。
急いで窓に駆け寄って外を見ると、はるか下の方、暗い庭に小さな白い光の塊が逃げるように駆けていった。
このままでは見失ってしまう。何だか雪尾さんがいなくなってしまうような気がして、咄嗟に「探してくる」と言い残して庭まで出てきた。
平らに整備された歩道、刈り込まれた芝生の上。
蕾が膨らみ始めた花壇の間、木々の濃い影と夜の闇が混ざった木立の下。
見えるはずの俺の目は、白い子犬を見つけることができない。やがて立ち止まって、当てもなく周囲を見渡す。
押し寄せるのは、強い後悔だった。あの場で雪尾さんを引き止めることができればと、実際にはできもしないことを考える。
どんな言葉を掛ければよかったのか、今でも解らない。
慰めの言葉も、励ましの言葉も、何も思いつかなかった。
雪尾さんにも、白瀬さんにも、何も言えなかった。
犬神が――白いしっぽすら見えないことが、ふたりとも解っていたから。
「……」
唇を引き結び俯いた視界に、ひらりと、白い欠片が過ぎった。
「……雪?」
見上げた夜空には冬の星座が輝いており、雲はない。風は冷たいが、雪が降るほど寒いわけじゃない。
強い風が吹いて、再び白い雪らしきものがひらひらと薄闇の中を舞ってくる。コートの襟にくっついたものを指でつまみあげれば、雪の正体は白い花びらだった。
丸い楕円形で、片側に小さな切れ込みが入っている。薄く繊細な花びらは日本人には馴染み深く、春の訪れを知らせるものだった。
「桜……」
庭を囲む木々の中に、白い花を付けてぼんやりと浮かび上がる木の姿がある。山桜だろうか。暗い木立の中で一際目を引く満開のそれに、今頃気づいた。
雪を積もらせたような桜の木に近づけば、頭よりも高い位置、見上げた白い桜の花びらの中で白い塊がもぞりと動くのが見える。花にまぎれているのは、小さな、白いしっぽ。
「雪尾さん――」
『我が行こう。待っておれ』
いつの間に近くに来ていたのだろう。
俺の背後から現れた白姫さんが、宙を蹴って飛び上がる。高い桜の枝の中に顔を突っ込ませた白姫さんは、やがて軽い足取りで地面へと降り立った。
振り返った白姫さんの口元には、子犬がだらりとぶら下がっている。まるで母猫が子猫を運ぶ時のように、白姫さんが雪尾さんの首根っこを咥えていた。
『……これ、いつまでもめそめそするな』
宥める白姫さんの声に、雪尾さんはいやいやをする幼児のように身体を捩らせた。幼い慟哭が、頭の中に響いてくる。
みお。みお。
ぼくにきづいて。
こんなの、やだ。
やだよう。みお、みお。
白瀬さんの名前を呼ぶ声に、居た堪れなくなる。
大丈夫ですよ、なんて簡単に言えなかった。また見えるようになるからと、誰が確信を持って言えるのだろう。ふたりを繋げていた糸が切れた今、繋ぐ手段を俺は持ち合わせていない。
犬神が見えるからと、それだけでふたりの力になれている気がした。けれども結局、見守ることだけしかできなくて、見えてほしいと願うだけで。ただ側にいるだけの俺に、何ができるのだろう。
己の無力さが悔しくて、歯がゆくて、拳を強く握ったときだった。
「――雪尾」
彼女の声が、犬神の名を呼んだ。




